あるいは、「他人の過ちを認めて許しましょう」などと言うのも同じです。そうした境地に至るには、怒りや憎しみ、妬みや恨みといった感情と、とことん向き合っていく必要があるでしょう。

そうした部分を咀嚼(そしゃく)できないのに、「許すことが善である」とか、「愛で補うことが正しい」とかを強制してしまうと、無理矢理自分の感情を押し殺すことになります。

そういう覚悟の気持ちを持てないのに、その教えを取り入れようとしても、なかなか無理があります。

凡人がいきなりできるような心得ではありませんし、さらに言うなら、できなかったときに自己否定へと向かいます。まるで自分は悪で、ひどい心を持った人間かのように……。

そんなものは、一冊の読書でどうこうなるものではありません。「他人の意見に耳を傾けること」、これは大切な考えだと思います。

ですが、「読書は人生を変えない、変えられるべきものではない」、もっと言うなら「他人の言った一冊ごときの幻想によって変えられるほど、我が人生は甘くはない」ということ、これが私にとっての読書の前提なのかもしれません。

まとめ

改めて指摘したのは、明らかにメリットがあり、効用があり、正しい行為であると信じられているから、大袈裟ではなく、その重圧に耐えきれなくなる人が現れ、読書を好きになれないという現象が起こるのだと思います。

「必ずいいことが起こりますよ」と言われると、人間は身構えてしまいます。まずは、〝引かれない〟ための読書を心がけるべきなのです。

確かに、本を読まない理由なんてものを考えれば、一〇や二〇は簡単に出てきます

―「困らない」、「格好悪い」、「不自由」、「興味がない」、「時間がない」、「お金がない」、「読みたい本がない」などなど―。

再び問いますが、なぜ私は本を読むことを考えているのでしょうか?

良い行為であることの前提に、なぜ本は立てるのでしょうか?

ここまで引っ張ってきて、さんざん御託(ごたく)を並べた割には繰り返しの結論で申し訳ないのですが、結局いまのところまだ、「読むことによってそれを考えている」と答えるしかありません。

本書において、これからさらに検討を重ねていきます。

※本記事は、2021年8月刊行の書籍『非読書家のための読書論』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。