ほどなく代金を支払おうとお財布をかざして手を振るとムッシュは「いらない」と言う。どうして? 私は観光客なのよ。

「いらない。その代わりにまた来てくれればいいから」

ムッシュは譲らなかった。わかるような、わからないような話だった。私は外国人で、社交辞令にしても代金をとらないのは道理が違うような。ムッシュの厚意を嬉しく思いながらもよく理解できないまま、私は「ありがとう」の言葉を三度繰り返して店を出ると、彼も店の外まで私を送り出してくれた。そして私の顔をじっと見つめてこう言った。

「また来てほしい。君は戻ってこなくちゃだめだ」

ムッシュはまだ私の顔を見つめている。

「え?」

「また来るんだよ、必ずここに」

彼の言葉を聞きながら私の頭の中はくるくる回転していた。もちろん、何回だって来たいわ。でも無理なの。そう簡単にパリにやって来られるような優雅な身の上じゃないことは自分が一番よく知っている。それでも、そのとき、どうして他の言葉が言えただろう。ためらいながらも私はこう返事をしていた。

「……戻って来るわ」

ところがムッシュは、私が心のどこかで無理をした言葉だとすぐに見抜いたようだった。

「戻って来るんだよ。パリ観光にじゃない、この界隈にでもない、この店にだ」

ムッシュは声を大きくして身振り手振りで店や街を表現している。

「戻って来るよね?」

私の真意をはかるようにムッシュは眼差しを左右に動かしながら真剣に私の瞳を探り、また同じ言葉を繰り返した。

「戻って来るわ」

私が遠慮がちに答えたせいか、ムッシュは私に問い続ける。

「戻って来るよね? ここに」

彼はもはやその言葉しか言わなかった。本気で言っているの? そう思った瞬間、私の心がざわついて、(まばた)きをするのと同時に何かが音をたてて、それが胸の中に落ちてゆくのがわかった。

「You will come back here?」

「I will come back here.」

お互いに不慣れな外国語である英語で同じ会話を繰り返すうちに、気持ちを伝えるのはどうしたらいいのかと考えてしまい、私は「約束するわ」をキスで示した。なに、私は目を閉じただけだ。パリならこれもありだろう。通行人をどこか遠くに、お店の前で私たちはそっと初めてのキスを交わした。

私が恥ずかしさに俯いたせいで、ムッシュはフレンチスタイルの別れを日本人の私が自然に受け入れたかどうか心配そうに見ていた。それからムッシュは私の背中を抱いて、私たちは束の間の五〇メートルのデートをした。

「仕事を離れちゃいけないわ。お店に帰って」と二度私が言うまで。そしてセーヌ川に近いとある路地の曲がり角でもう一度キスを交わすと、ムッシュは「チャオ」と手を振り小走りで店に戻っていった。イタリア人なのか。名前も知らないな。

ちょうど一年前のことだった。

※本記事は、2021年7月刊行の書籍『Red Vanilla』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。