橋を戻って元の国道に出、市街地に入る。どこの町でも見る全国区のドラッグストアーや電気店などの並ぶ新開地を過ぎて古びた街並みの狭い通りに入る。やがて大通りに出、右に曲がると高梁駅、橋上駅舎の連絡通路を渡って駅の反対側に下りる。

駅の真向かいにある寺の城郭を思わせる石垣と伽藍が目を驚かせるが、これは恰の寺ではない。細い曲りくねった道を恰の眠る寺を探して歩く。折よく人に出会い教えられて寺に着く。大きな寺ではない。石段を数段上り小さな門を潜ると正面に本堂。門を入ってすぐ左手のよく目に付く所に、熊田恰の墓は鎮まっていた。墓前で恰と場所を同じくして時を過ごした。

寺を出て、ここまで来たのだからと、標高430メートルの臥牛山上にある松山城を目指す。寺の多い一角を抜けると武家屋敷街風になり、岡山県立高梁高等学校に突き当たる。かつて藩の政庁などがあった場所であろう。城跡と県立高校の取り合わせは、全国どこで出会っても、そこはかとない郷愁を感じさせる。

道を右にとって登って行けば城があるはずである。しかし雨がスコールのように激しくなり、坂を雨水が川のようになって流れ落ちて来る。さて、どうしたものか、進むべきか進まざるべきか……。このまま帰るのも心残りである。しばらく雨宿りして、幸い小降りとなったところで前進と決める。

幕末全国に名を轟かせた儒者山田方谷の塾舎の跡を過ぎると、左手に城への遊歩道入口がある。遊歩道と言ってもただの雨に濡れた泥道である。それでも山に入ると木々の茂りで雨が防げ、時折滴が傘を打つ程度になり助かる。

しばらく登ると「猿多し、注意」の立札がある。「目を合わさないよう」と注意書きがあるので、恐れてひたすら下を向いて歩く。城に登り着くも閉門時刻に近く、慌てて天守閣に上がる。

下界はほとんど雲の下で、僅かにその隙間から見える市街の家々は、遥かに遠く小さい。この城は確かに天空・雲上の城である。山を下りるとまた雨脚が激しくなった。濡れ鼠になって駅に着く。雨と夕闇とで判然とはしなかったが、熊田恰と山中鹿之助の住むこの松山は、趣のある、落ち着いた良い街のように感じられた。

※本記事は、2019年11月刊行の書籍『歴史巡礼』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。