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自分の役割をしっかり生きる、それが立派な生き方

「弱い人」も「強い人」も、「エリート」も「エリートでない人」もみんな大事な役割を持っているのだと、心の底から理解できた。私にそのことを知らしめるために、会社を倒産にまで追い込みかねない大きな試練がやってきたのかもしれないと思った。

「そんなわけないでしょう」といわれるかもしれないが、親鸞聖人だったか、仏の教えは「親鸞一人(いちにん)がため」という言葉を残されている。

「この尊い教えは我一人を導くため」とひたすらに思い定めて精進された聖人の思いは、私なりに理解できる気がする。仏とか神とか、言葉は何であれ、天は万人のために教えを説いておられると思うが、その教えを受け取るのはひとりひとりの「我」なのだ。

どう受け取るか、何を感じるか、それは「その人、一人」の問題なのだと思う。親鸞聖人の言葉はそのことを指し示しているのではないだろうか。

我が身に降りかかるすべての事柄は「我一人のための導き」だと私も思っている。会社に起こった試練も、社長をはじめ、すべての従業員にとってそれぞれの「我一人がための試練」だったはずだ。あのとき、あの試練にあったすべての従業員ひとりひとりが、それぞれの問題を試されていたのだと私は思っている。

私自身はあのとき驚くほどたくさんの問題を超えるための試練を与えられていたと感じている。このときに感じ、理解した「すべての人がみんな大事な役割を果たしているのだ」という思いは本当に骨身に染みたらしく、この頃は台所で卵を割ったり、片栗粉を溶いたりしているときなど、ふと

「こういうときには骨董屋で売っているような高価な器は役に立たないわね。こういう安いけれど丈夫な器が役に立つのよね」

と自分に言い聞かせたりしている。そう、どんなものも、どんな人も置かれる場所に意味があり、そこでの役割があるのだと、その与えられた役割をしっかり果たすことこそ、立派に生きたということになるのだと自分に言い聞かせているのだ。