それをたとえば、「ネットはダメで、読書が正しい」とまくし立てるのは、余計なお世話というものです。インターネットの検索機能からみれば、本の情報量なんて微々たるものです。本を買ってきて読むという手間を考えれば、モバイル端末からの取得の方が圧倒的に有利という意見に100%同意します。ということで、書籍の効用だけを説き続けても、不毛な議論にしかなりません。

ではなぜ、私は読書について考え、読むことについて書いているのでしょうか。正直に言うと、まだよくわかりません。ただひとつ言えることは、「なぜ本を読まなければならないのか?」の解決は、本を読むことでしかおそらく図れないと思いますので、本を読む理由について考えたいから本を読んでいるという、”読書ジレンマ”の無限ループに陥っているのです。

―わかりにくくてすみません。要は、「せっかく苦労して読むのだから、わけもわからず読むのもなんか悔しい」ということなのかもしれません。ですので、これから少しずつ考察を重ねていきたいと思います。

このくらいの読書量とこの程度の読み方だから楽しい

「本を読むことで、本を読む理由の答えが導き出せるかを考えている」と述べましたが、それ以前に、まずもって私が本を読めているのは、このくらいの読書量と、この程度の読み方とをしているからです。具体的な数字でいうと、一週間に一冊から二冊程度でしょうか。

月にすると、五冊からどんなに多くても一〇冊にはおよびません―それでも年間一〇〇冊くらいの計算になりますから、われながら読んでいると自負しています。

書評や要約ライター、読書アフィリエイトや背取り(安く古本を仕入れて、読み終わったら高く売る)を生業(なりわい)としていたら、とてもこんな悠長に読書を楽しんではいられません。読みたくない本を読み、締め切りに追われて感想を述べ、たいして面白くなかったにもかかわらずポジティブなコメントを発表したりすることに耐えられなくなると思います―これらの仕事を否定しているわけではけっしてありませんので、悪しからず。

裏を返せば、いま以上のハードな読み方を、仮に課してしまったら、読みたくなくなるのではないかと恐れています。ついでに言うと、私は、多読や速読といったものにも一切興味を持てません。読む理由を考えたいがゆえに、本を読もうとしている割には、「その答えを得られない程度の読書量がちょうどいい」などという矛盾を述べているのです。まったくもって厄介な、自称“読書家”です。

※本記事は、2021年8月刊行の書籍『非読書家のための読書論』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。