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姫路藩

譜代15万石の姫路藩は、鳥羽伏見戦時、藩主酒井忠惇が旧幕府の老中職にあり、旧幕側に立って出兵するとともに、慶喜とともに船で江戸へ逃れた。この時藩兵は、忠惇の命令で姫路に帰った。1月11日、薩摩藩などに姫路征討令が出た。

国許では、藩主不在であったが恭順を決め、進撃してきた岡山藩兵に平和裏に城を明け渡そうとした。しかし、これを知った長州藩兵は飽くまでも武力による討伐を主張し、このため城に大砲が撃ち込まれ、城の一部が破壊された。家老が門を走り出て、改めて降伏の意を示すことにより砲撃は止み、1月16日に開城となり、1月24日には恭順が認められた。

その後藩では繰り返し寛大な処置を嘆願するとともに、新政府軍としての出兵や船の献納、それらが容れられない場合には軍資金を差し出したいと願い出た。

この間重臣たちは、江戸で謹慎の身にあった藩主に代わって、前藩主の忠積に上洛して朝廷に謝罪するよう頼んだ。しかし忠積は、「忘恩の王臣たらんよりは全義の陪臣たらん」と言って、上洛を拒否した。重臣たちは仕方なく、支藩伊勢崎藩の藩主の弟である忠邦を養子に迎え、上洛させることにし、忠邦は3月江戸を出発したが、入京は許されず、姫路での謹慎を命じられた。

5月20日、忠惇に蟄居が命じられ、忠邦への家督相続が許された。封土も安堵された。と同時に、15万両の献金を命じられた。献金に関しては、前記のように従軍などの嘆願を続けていたある時、「それほど言うなら軍艦1隻建造の費用として37万5千両も出せばよろしかろう」と言われ、それがあまりに巨額であったため、慌てて「とりあえず15万両を献納するので、残りは5年での分納を」と嘆願したことがあったという。