かつての、大人数を抱えていたラグビー部には、現在も部室が割り当てられている。数多くの部活動がある大磯東高なので、部室を明け渡せという声もあるのだと、異動した前任者からは聞いた。けれども、様々な練習用具も残されているために、かろうじて部室が確保されている。その部室内の壁面は、かつての部員たちによる下品な落書きに埋まっている。

その部室に戻ってきた時、部室前のベンチに男子生徒が二人、ぼんやりと座っていた。

「あれ、きみたち1Dの子だよね」

佑子が世界史の授業を担当している1年D組の生徒だった。

「和泉先生、こんちは」

人の気配を感じて顔を上げたのは保谷幹人くん。ほっそりとした、背の高い子だ。その横で、やはり穏やかに微笑んでいるのは西崎要一くんだった。背丈はないけれど、肩幅はがっしりした感じだ。

「あの、オレら」

保谷くんの視線が定まらず、口ごもるのは、きっと自分が一つのことに踏み出そうとしているからなんだ、と佑子には感じられた。だから、微笑みで、次の言葉を促した。授業中、ラグビーやってみようって思う人いない? などともらすことがある。こんなこと言っていいのかな、という迷いもあるし、これまではかばかしい反応はなかったのだけれど。

泳いでいた保谷くんの目が、空の方を向いて定まった。

「ラグビー、やってみようかな、って」

足立くんは無言のままで部室の鍵を開け、室内に飛び込んだ。

「スポーツの経験なんてないんだけど、できるかな、オレら」

保谷くんは、西崎くんの方に目をやりながら、つぶやくように言う。西崎くんは、なぜか無表情のまま保谷くんの言葉を聞いている。

「できるよ、やってみようっていう気持ちさえあれば」

佑子の中には、少しあたたかなものが兆す。あの、高校生だった頃の駆け抜けるような日々。毎日が目の前のことで精一杯だったけど、思い切り笑えたり泣いたりできた日々。

足立くんが、右腕に白い楕円球を抱えて出てくるなり言う。

「体操服に、着替えろよ、お前ら」

不敵ともいえる笑み。透きとおった眼差しと、その中にこもった決意と。

「やってみようかな、じゃなくてさ。やろうぜ、一緒に」

保谷くんは笑顔になる。西崎くんの表情はまだ硬い。保谷くんにとっては、きっと一カ月の逡巡が解けた瞬間なのだ。二人は部室で慌ただしく着替えて出てきた。三人でグラウンドに向かうその背中を見ていたら、不意に涙が出そうになった。

※本記事は、2021年6月刊行の書籍『楕円球 この胸に抱いて  大磯東高校ラグビー部誌』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。