名古屋陸軍幼年学校

それは人生の大きな転機となりました。昭和十七年四月、満十三歳となって間もなく、名古屋陸軍幼年学校に入学、ここから私の人生はがらりと変わったのです。

四月一日、入学式の際、着けていた私物は両親が持って帰り、足の先から頭まで、幼年学校の制服着用となりました。すべての行動が、幼年学校生徒として始まりました。起床から消灯まで、ラッパの合図によって規律正しく行動します。

午前中は学科、午後は術科です。学科は中学とほぼ同じですが、術科は教練、剣道、柔道、銃剣道、体操、射撃、滑空(初期グライダー)など、さまざまです。私は最年少で背丈が低く、術科で同期生についていくのが苦労でした。しかし一学期を終わる頃になって、何とか共に生活できるようになりました。

陸軍幼年学校というのは、陸軍将校養成のエリートコースの始まりに当たります。そこでは人間形成が何よりも重視されています。仙台、東京、名古屋、大阪、広島、熊本の六カ所にあり、それぞれ仙幼、東幼、名幼と呼ばれていました。

明治三十年に設立され、私たちは四十六期に当たります。当時の定員は、各校百五十名で、五十名ずつの三訓育班に分かれ、各訓育班を大尉か少佐の生徒監が責任を以て教育を担当します。また班長として下士官二名がつき、さらに模範生徒といわれる三学年生徒が、入学時から一学期、十名にひとりついて直接指導にあたります。教育体制は至れり尽くせりでした。

一方自分のことは自分でしなければなりません。靴下の綻び、衣服の整頓(羊羹のように四角にきちんと畳む)、指に脂をつけての靴磨き、泡の出ない石鹸による洗濯、正しい脚絆の巻き方など、誰も手助けをしてくれないのです。

幼年学校での語学は学校により異なり、英語、ロシア語、ドイツ語、フランス語のうち、二か国語が割り当てられます。名幼はドイツ語とフランス語で、私はドイツ語を学びました。
 

※本記事は、2021年7月刊行の書籍『健康長寿の道を歩んで』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。