父親は違うだろうと思っていたが、病気で遠い昔に亡くなった母親だけは自分の母であってほしかった。愛して止まなかったからだ。甘やかすだけの愛じゃない。今の自分のスキルを与えてくれたのは母、鈴子だった。

気が付けば、いつも母が何かを与えてくれた。宇宙や動物の本にピアノ。スイミング教室に幼児教育は他の子供なら嫌がるかもしれないが、武史は母の笑顔が見たくて難なくこなせた。今にして思えば、英語のフレーズや音楽が流れる中で母の手作りのサンドイッチやお菓子を食べながら過ごす時間は至福の時であり、今は願ってももう武史の思い出の中だけだった。

武史が小学校に入学すると同時に、上品で横顔に影のある黒目のきれいな母は病に倒れた。医療に携わる環境の中で母を救える距離にいながら、簡単にあの世に旅立たせた父に嫌悪感を抱いたのはこの時から始まる。今も、その感情に変わりはなかった。

中学、高校と男子校だった武史は同年代の女性に興味を持たなかった。友人の間での女子に対しての卑猥な、もしくは淡い恋心など全く幼く陳腐だった。大学生になって女子学生が端正な顔立ちの武史にたくさん言い寄ってきたが、全部無視した。というか、どの女も武史の基準に達していなかった。

表面的な若さだけをチャラ付かせた、医師の卵目当ての駆け引きなどに利用されるような俺じゃないと一瞥も与えなかった。もちろん女性に興味がないわけじゃない。友人、広瀬とプロの女性のいるところに連れてもらい、ああ、大人になればこんな風に愛を(ひさ)ぐのかと思った。

もちろん、それは本当の愛ではなかった。遊戯であったが、経験は実験と同じだった。その後広瀬から彼の彼女を紹介されたが、それもまた武史にはただの人形にしか見えなかった。

武史にとって母は特別な存在だった。長く美しい黒髪を一つに束ねて、清楚な服装で家事をする母は付かず離れずの距離で武史にいつも接してくれた。鈴を転がしたような笑い声や、本を読んでくれるときの抑揚は今でも忘れることはなかった。思い出の中の母は永遠に年を取らない。武史の理想の女性であり、女神だと信じて疑わなかった。なのに、自分はその母から生まれていないだと? 

ありえないじゃないか。母からの愛を搾取して何も返すことのできないままに、一人天に行かせてしまった。なのに、自分はまだそれ以上に母を裏切っていた。母は実子でないと分かっていたのだろうか。言いようのない怒りは武史の心を静かに、だが確実に蝕んでいた。

 
※本記事は、2020年7月刊行の書籍『双頭の鷲は啼いたか』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。