月島と晴海は埋め立ての先駆け

月島と晴海は東京湾埋立ての先駆けです。明治二十五(1892)年の東京湾澪浚(みおさらい)事業で海底泥土を浚って積み上げて生まれたのが月島(1号地)です。続いて勝鬨(2号地)、豊海(3号地)、晴海(4号地)と埋立地は沖合に細長く伸びていきました。この澪浚事業は、同時に隅田川河口改良工事も兼ねており、長年、隅田川が海底に運んだ泥土を取り除いて航路を整備したのです。

石川島の造船所の下請け鉄工所などが月島に建設され、そこで働く人々の住居も月島に建ちましたが、月島には築地側からも深川側からも橋が架けられず、遅くまで佃の渡しと月島の渡しで往来する不便なところでした。そのため埋立の先駆けでありながら、月島の発展は遅れました。

石川島造船所が転出して月島内の関連する下請工場も撤退すると、月島は都心に近い土地でしたから住宅地に変わっていきました。月島は不思議にも関東大震災でも余り被害を受けず、東京大空襲でも殆ど焼けませんでした。ですから月島には下町風の路地が戦前のまま残っています。その路地では鉢植えの樹木や草花を家々が植えているので、路地そのものが裏庭園となっています。

その路地裏庭園のある下町風の住宅地の真ん中を突っ切るように通る道が月島西仲通り商店街です。

この月島西仲通り商店街は、通称「もんじゃストリート」と言われていて、もんじゃ焼屋が七十軒以上も軒を連ねて営業しています。もんじゃ焼は、戦後の浅草で子供向けのおやつとして売り出されたのが初めてですが、月島にも定番の紅生姜、桜海老、切烏賊の具を入れて食べるお好焼きが戦前からあったそうで、月島のもんじゃ焼きは浅草とはルーツが違うと主張しています。

晴海の広大な埋立地は、日本万国博覧会の開催予定地として戦前に整備されたものでした。戦後のひととき東京国際見本市会場となり、モーターショウや見本市の国際的イベント場として使用されましが、広さの不足とアクセスの悪さから、今は東京国際見本市はお台場で開催されて空き地となっていました。

晴海の埋立地の先端には、晴海客船ターミナルが建設され、国内外の豪華客船が接岸する東京の海の玄関となっています。その東京の海の玄関の後背地に、令和二年、2021東京オリンピックの選手村が誕生します。選手村はオリンピック大会で選手や役員が宿泊する施設ですが、既に二十棟余りの高層ビル群が起ち上がっています。オリンピック大会終了後には晴海フラッグという名前の臨海高級マンションに生まれ変わり、一万二千人もの人が住む町が誕生することになります。

これまでの臨海開発は、嘗ては工業用であり、最近は業務用でしたが、偶然でしたが晴海に住居用の大規模開発が実現することになりました。ここは銀座、大手町など都心部に近く、晴海客船ターミナルの真後ろという立地条件に恵まれた住宅地になります。