苦境を打破した現場第一主義

合理的に計算されたような仲井眞弘多の行動原理は、実際のところシンプルな思考回路の中にある。ここで仲井眞流の「経済哲学」に触れてみたい。

繰り返しになるが日本復帰からこの方、沖縄の県政は6~7%台に上る高失業率に悩み続け、失業率改善は歴代県政で常に「県政最大の課題」に位置づけられた。長い期間、県都の那覇市では仕事を求める失業者が職安(職業安定所、現在のハローワーク)に列をなす光景が日常的に見られ、マスコミのニュースになったものだ。

失業問題をいかに解決するかという大命題に対しては、仲井眞自身も知事になる遥か以前より考えていた。

政府の通商産業省=通産省(現在の経済産業省)で長年、行政現場を踏み、沖縄総合事務局の通産部長を経験した仲井眞は、沖縄の産業構造が内包する長所や弱点を知悉(ちしつ)していた。このため沖縄の失業率の改善、解消には独自の「解」をそれなりに持っており自信があった。

仲井眞流の解決策は次のようなものだった。

「産業基盤を整備して新しい企業を興せば仕事が生まれる。足りない分はよそから企業を引っ張ってくる。仕事があれば失業者は減る」

単純明快な思考ではある。

仲井眞は、「沖縄の風土、条件を生かした産業は必ず興せる。まずはしっかりした産業振興策の策定が前提条件」と結論づけた。

知事選挙で仲井眞の主張は県民多数の支持と理解を得た。次は選挙公約を行動に移す番である。県内だけではない。本土各地域にも飛んだ。

東京や大阪、愛知、神奈川など県外主要都市の企業を訪れて、人員採用の拡大はもとより、企業の沖縄進出を積極的に働きかけた。

政党など政治全般の強力な後押しも要請した。

沖縄振興予算の項でも触れるが、仲井眞の要請行動は万事に徹底しており、あまりの熱意に相手が音を上げる場面もしばしばだった。

彼を知る人は「タフ・ネゴシエーター」と呼ぶ。

そもそも彼は、官僚生活や産業界の時代からフットワークが軽い。知事室にこもって行政実務だけに専念するタイプではなかった。

幅広い知見と行動が交錯する行政や政治の現場を好んだ。