来栖が在籍していた頃の塾のメインスポンサーは野党から政権党についた民主党だった。在籍の後半期には、既にこの政党は序々に凋落していくという時期にもあたっていた。この事情も塾での修業意欲を高めない原因の一つとなったのかもしれない。

もっともこれは多分に責任転嫁の気味があるということには彼自身気づいていた。卒塾後を想定して実務としての政治活動に従事することにはその当時から関心を失うようになっていったのは事実だが、対して街頭演説や政見放送用の「台本」であれば幾通りものバージョンを書けるほどにアイデアが浮かぶこともあった。だから政治評論の道へ入ることなどを思い描く時には塾での修業も苦にならず、まだまだ塾で学ぶべきこともあると考えていた。

その当時は実務家から理論家への転身もあり得ると考えていたのだろう。しかしこの理論家志望の志も、政治の抜本的刷新から社会全体の変革をめざすという目的意識から出てきたものに変わっていった。客観的に見ると大言壮語に根ざす内容だが、当時の彼にはそれがはっきりとはわかっていなかった。

それ以前の二〇代半ばの頃には、一時の腰掛けのつもりで広告代理店に勤めていたが、その勤めのかたわら、フリーランスのジャーナリストになる道をめざした時期もあった。その熱もその後冷めてしまい、一種の反動であろうか、来栖は理論を体系づけたり、評論をまとめるといった抽象思考を伴う活動には全く嫌気がさしてやめてしまっていた。

さらに都の区役所に入るまでの時期には生活に密着した問題に取り組み、日々の生活そのものを変えることに専心するようになった。日常生活の中で余力が残っている時間帯を利用して、政治にかかわる問題を考えればよいのだと、当時は考えたのだろう。よく言えば地に足のついた地道な努力で社会を少しなりと変革できないものかと考えるようになったということだ。

旧友の葛城が推薦してくれたこともあって中途採用で運良く区役所に職を得てからは、地方再生を志向するビジョンを立ち上げ、日々の生活の拠り所にしたいとの意欲を持てるようになった。要するにこの頃は時々の理想に走る、いわゆる足腰が定まらない生活をし続けていたことになる。