4章 大阪大学附属病院入院時代

病気の理解と治療
 

阪大病院に入院して、河先生と井上先生に出逢ってから、私は初めて自分の病気と治療について理解をすることができた。先生方が私に病気のことを説明して下さった日のことをとてもよく憶えている。

私が理解しやすいように、先生方がカンファレンスルームのホワイトボードを使いながら、どんな病気でどんな治療を受けているのかを説明して下さった。

最初の方で述べたように、私の病名は「若年性多関節リウマチ」で難病指定にされている免疫異常の病気だ。

体が病気になった時にその異変を感知して闘ってくれるのが免疫だ。だが、私の免疫は正常に機能せず、体に異変が起きていないにもかかわらず、まだ異変が起きていると勘違いし、自身の免疫が自身の関節を痛めつけるのだ。

なんとどんくさい病気だろう。どんくさい私? には似合っている病気かもしれない。だってそうやろ、「あほか、何年勘違いしてんねん。しつこいわぁ」とツッコミたくなる。

阪大病院での入院中は、少しでも可能性があり試すことができる治療はすべて挑戦してきた。河先生も井上先生も新治療方法に対していつも積極的な姿勢だった。

恵まれた環境に生まれた私は、認可されていない点滴治療や服用薬を試すことができた。両親には本当に感謝している。

挑戦した点滴治療のひとつに、母と私が名付けた “シャンデリア” 治療(インターフェロン治療)があった。その点滴ボトルは綺麗な硝子のボトルで光があたると虹のようにキラキラしていた。

その他に、原油の臭いや味がする(実際に原油を飲んだことはないが)“サンディミュン” はなかなかのパンチの効いた服用薬だった。

一番辛かった治療は、血奬交換だった。その治療は阪大病院ではできなかったので、千里救命救急センターのICUに数カ月間だけ転院した。

血奬交換は、自分の血液から血奬を取り去り血球部分を戻す治療法だ。私の簡単な理解では、自分の血液を取り出してろ過し、良い血液だけを体に戻すという治療法だった。

血漿交換は一時的には効果が出ていたが、持続性はなかった。救命センターでの治療は一旦打ち切り、また阪大病院に戻ることになった。

救命センターの面会時間は厳しかった。母は一日二回お昼と夕方にお弁当を持ってお見舞いに来てくれた。

母は、面会時間以外はその当時、吹田市に住んでいた母の兄である伯父の家で休ませてもらっていた。伯父、伯母と歳上の従兄もよくお見舞いに来てくれていた。

多量のステロイドの長期使用の副作用として、普通は大人がなる白内障(水晶体が白く濁り視力が低下する)にかかってしまった。手術を決断した時には、私の視力は明るいか暗いかだけを判別できるだけだった。

両目を手術した時、私は一〇歳だったと思う。この時に両目の水晶体を失った。

現在も視力は良くはないが、牛乳瓶の底のような眼鏡(ケント・デリカット眼鏡、分かるかなぁ~)か、特殊なコンタクトレンズと眼鏡の両方を使用して見えている。

喜ばしいことに、ほんの少しずつだが私の関節痛と発熱の症状は安定していき、中学校入学まであと数カ月を残し、阪大病院をやっと退院することができた。

※本記事は、2018年9月刊行の書籍『車イスの私がアメリカで医療ソーシャルワーカーになった理由』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。