いくつか手頃なレストランはあるものの、いまひとつフランス語のメニューを私は判読できない。とあるカジュアルなイタリアンレストランのメニューだけがカルボナーラ十三ユーロとわかった。フランスに来てイタリアンもどうかなあと躊躇したが、そこは私の言語能力ゆえ仕方ない。

しかも店先には優しそうな年配のムッシュが立っていて「どうぞ、お入りなさい」と笑顔で勧めてくれた。こんな感じのいい店は少ないと知っている私は、ムッシュの親切さに救われ、おいしい食事をとることができた。彼は私のテーブルにやってきては、「おいしいか」とか「ワインの味は好みか」などと気にかけてくれ、どこの国から来ていつまで滞在するのか、と英語で私に聞いた。彼は少し私を気に入ったようだった。そして私に「君はミス?」と尋ねた。ちょっと考えて私は一応、独身だから笑って頷くと、ムッシュは「そうだと思った」と言う。

なんか勘違いしているな、この人。

かつて私は専業主婦だったがそれも十年前の話、今は独り身だ。いいわ、今だけのことと知らぬ顔して私はちょっととうのたった(・・・・・・)未婚女性を装った。ムッシュはキッチンに引き上げたあと、コックやスタッフに何か私のことを話しているようだ。そして、彼らはキッチンから身体を前のめりにして私の顔を覗いている。こんなふうに日本人に興味を示す店、パリには少ない。私は恥ずかしくなってしまい、デザートの注文は断って早々に支払いを済ませて店を出る。

「今度いつ来る? 君と話がしたいんだ」

店のドアを半開きにしながら顔を覗かせたムッシュが、私の背中を追いかけるように声をかける。突然そんなことを言われても何と返事をしてよいかわからず、戸惑いながらも私はこう告げていた。

「わからないわ。来られたら明日」

そうして私は店をあとにして、なぜか走ってホテルへ帰った。

それが彼との出会いだった。

日常に恋物語セーヌ晩夏

二日目はムッシュの店に行かなかった。いくらなんでも、初めて行ったレストランの外国人男性の言葉を真に受けるのは憚られた。ただ、四日目の夕方、パリからTGV(新幹線)で二時間ほど離れた郊外のストラスブールでボーイフレンドとはぐれてしまい、一人でパリに戻るというアクシデントが生じた。

私がパリの東駅に戻ったのは、午後七時くらいでまだ明るかった。乗降客の雑踏に気をつけながら駅構内をうろうろしたり、待合室で座ったりして午後九時まで待ってみたけれど、ボーイフレンドは姿を現さなかった。彼は戻って来ることができるのだろうか。

日没になったので、不安を抱えながらも私はホテルへ帰った。とはいうものの、ヨーロッパの夜のホテルの部屋にひとり。私はいてもたってもいられなかった。しかも帰国が明日、五日目の午後三時に迫っていた。刻々と時間は過ぎてゆく。そこで私は一日目に寄ったイタリアンレストランへ出かけることにした。なにか安心できる場所が欲しかったのだ。

※本記事は、2021年7月刊行の書籍『Red Vanilla』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。