伊予松山藩

家門15万石の伊予松山藩主松平定昭は、1863年9月、23歳で藩主になると、すぐに幕府の老中になったが、1カ月を経ずに辞職している。鳥羽伏見戦時は大坂におり、藩兵は旧幕府の命を受けて摂津梅田村で後方警備に当たり、定昭は慶喜が大坂を離れると、帰藩した。

1月11日、土佐藩などに伊予松山討伐の命が下った。

定昭は未だ帰藩の途中にあり、藩では、前藩主の勝成を上京させるなどして、鳥羽伏見の戦闘には加わっていないなど弁明哀願したが、許されなかった。

藩内では、恭順・抗戦両派の間で激しい論争があり、定昭も一時藩士たちに抗戦を宣言したと言われるが、1月23日に土佐藩の問罪使が到着した頃には、恭順に決し、定昭は城を出て謹慎した。

1月27日には土佐軍が城に入り、その後長州勢なども次々に松山に到着した。

赦免の嘆願が繰り返しなされた。5月22日、処分が告げられ、藩主定昭は前藩主勝成に交代して蟄居、重臣たちは閉門や隠居、15万石の封土はそのままとするが、15万両の軍資金を貢納のこと、とされた。

このように血を見ることもなくことは終わるかに見えた。が、軍資金の貢納を巡って一騒動があった。

6月、藩の京都留守居役の名で、「藩の疲弊の窮状から、格別の御慈憐をもって、5万両は即納、残りの10万両は納付を猶予するということにしていただきたい」との嘆願が新政府にあった。

これに対して新政府は、折角勤皇の実を表せるようにしてやったのに、そういうことであれば15万両は献納に及ばない。「追テ被仰付品モ可有之ニ付、此旨可相心得候事」と不貞腐れた。

このやりとりを知った勝成は驚いた。驚いて新政府に「延納の申請は全く出先の家来の不束によるもので、これらの家来は厳刑に処するので、特別の御仁恤をもって当初の通りの献金を命じて欲しい。10万両は即納し、引き続いて5万両を上納したい」と懇願した。

7月、新政府は、「それならその不束者の処分を申し出るよう」と命じ、藩は、「家老の一人と留守居役に切腹を申し付けることでいかがでしょうか」と……。

さすがに新政府側も「それなら献金はさせてやる。寛大な措置として、両人には蟄居を申し付けるように」と言ったという。

※本記事は、2019年11月刊行の書籍『歴史巡礼』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。