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桑名藩

家門11万石の桑名藩は、会津藩とともに「罪第二等」とされた。藩主の松平定敬は、会津藩主松平容保の弟で当時22歳、大政奉還時は京都所司代の職にあった。

定敬は、1月6日慶喜とともに船で江戸に逃れると、奸賊薩長許し難しとして慶喜に再挙を勧めたが、容れられず、自らは飽くまでも抵抗を続けるべく、100名ほどの藩士とともに分領である越後の柏崎に移った。

一方、本国の桑名では、城を守って戦うか江戸に下って藩主とともに戦うか意見が分かれ、いずれとも定め得ず、藩祖の神前で籤を引いて決めることになり、結果は東下して戦うということであった。しかし、そこで下士たちの強力な反対に会う。生活の懸かる下士たちの上士たちへの懸命な説得があり、結局は恭順ということに決まった。

1月23日、重臣たちは、藩主の弟の萬之助を奉じて、四日市に進出してきた東海道鎮撫総督のもとに出頭し、降伏を申し出た。

降伏は受け容れられ、萬之助は幽閉され、家臣たちも謹慎を命じられた。桑名城は28日に総督軍に明け渡された。

その後本国では、10月には萬之助の幽閉や家臣たちの謹慎も解かれた。他に特別の処罰もなかった。

定敬の方も、越後で戦った後、会津、箱館と抵抗を続けたが、翌年に降伏しての処分は永預で済み、家は萬之助が継ぐことを許され、封地も減封はされたものの桑名をそのまま与えられた。

しかし犠牲者が出なかったわけではない。

家老の吉村権左衛門はもともと恭順派であったが、江戸、柏崎と定敬に従い、柏崎に移ってからも定敬に強く恭順を勧め続けた。

閏4月3日夜、権左衛門は帰途を二人の藩士に襲撃され、斬殺された。襲撃は定敬が命じたとされている。

森弥一左衛門は、大目付などを歴任、鳥羽伏見の敗戦後は彰義隊に入って戦い、次いで仙台、箱館と定敬に従った。定敬が降伏すると、自ら進んで反逆首謀者と申し出、1869年11月13日、桑名藩の江戸別邸で藩主の身代わりとなって切腹した。

また、下士の反対で恭順と決まったことから、下士の指導不行届ということで、小森九郎右衛門、山本主馬の二人が切腹したと言われるが、その詳細はわからない。