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発病

ある日、善一さんが、

「今日撮影をしていて、立ち上がろうとしたら転んでしまった。先日も、走っていて横断歩道で転んだ」

と言った。私は、

「仕事が忙しくて疲れているのよ」

と言ったが、心配なので、病院の診察を勧め、善一さんはT病院へ行って診察を受けた。帰ってくると、なんだか怒っている。

「1ヵ月検査入院しろ、と言われた。こんなに忙しいのに、1ヵ月なんて休めるわけがない」

そこで、セカンドオピニオンとして、長崎大学付属病院に行き、診察を受けた。その結果は、T病院とまったく同じ。1ヵ月の検査入院。二つの病院に言われてはしかたがない。なだめすかして、善一さんを長崎大学病院に入院させた。

そのとき娘は生後9ヵ月だった。娘にパパを忘れさせないようにと、一日に1、2回お見舞いに行った。何も自覚症状はない。ただ、転びやすくなった、ということだけだった。

不安はなかった。検査入院はきついものである。検査入院中、善一さんはずいぶん痩せた。結婚してから10㎏も太ってしまい、人相まで変わってしまうくらいだったから、ちょっとくらい痩せても大丈夫、と思っていた。

1ヵ月後、検査結果が知らされる日が来た。島原から善一さんのお父さんが来た。島原は、有明海を挟んで熊本の対岸にある。同じ長崎県でも、車を運転しない義父にとっては遠い道のりだ。

医者は、私ではなく、お父さんだけを呼び出し、結果を報告した。医者のところから帰ってきた義父は、何かひどく落ち込んだ様子だった。

何を言われたんですか? どうして、妻である私じゃなくお父さんに報告したのだろう。私はだんだん混乱してきていた。

義父によると、善一さんはSPMAという病気であり、今の症状は改善こそしないが、進行もしないということだった。

SPMA、どんな病気なのだろう。聞いたこともなかった。そして、この結果を聞いた善一さんは、泣いた。足がひどく弱っていることを自覚していたのではないかと、今にして思う。

そして、それが改善することがない、と医者に断言されてしまった。そして、退院。昭和60年11月だった。

退院して数日後、リハビリ研究が進んでいると聞いた国立療養所長崎病院に行き、H先生に相談して、理学療法士の先生から簡単なリハビリのやり方を教えてもらった。

その二日後、私の実家の母に勧められた漢方薬を扱う整形外科のある個人病院へ行った。首の骨のレントゲンを撮ったりしたが、別に異常もないことがわかり、大学の診断の通りであろうということだった。

ただ、大学病院ではくれなかった薬(パロチン)をもらい、とにかく飲んでみる価値のある薬があることだけでも私たちは喜んだ。そして、しばらくその整形外科に通うことになる。

翌年1月、N新聞に漢方薬のことで興味ある連載があった。それには、その年が寅年であることにちなんで、虎の骨、特にスネの骨が貴重な漢方の薬であること、そしてその薬は筋骨を強くするので、骨格、筋肉の発育不良、筋萎縮症、麻痺、病後の弱りに用いると良い、ということが書かれてあった。

その連載を執筆された福岡のH病院へ早速連絡を取り、2週間に一度通い出すようになった。その病院は漢方薬を出してくれ、保険もきくというので、かなり患者の多い病院であったが、私たちは2週間に一度、長崎から福岡へ日帰りで通うことにした。