タケルは奇妙な感覚に心がざわついてきた。彼女に触れたいと。

「ペット禁止のマンションだから、注意しないと」

「それは大変。でも一回でも鳴いたらバレちゃいそうですね」

年齢不詳の丸顔で幼い感じの女性だった。首をすくめて少し笑った。

「あなたはこの辺に?」

「僕はもう少し先の方」

「私はこの道の一本向こう側です」

女性は犬のリードに慣れていないせいで引っ張られていた。

「他に預かれる人がいないのかな」

「みんな、無理だって言うし」

「いい人だね」

その女性はラフなジャージとスニーカーだったが優しそうな感じだった。ふと洗った髪のにおいがした。ここでこの女の人生を終わらせるにはすごく惜しいがしょうがない。電車の高架下にさしかかったとき、タケルは彼女の後ろに回り込み、軽く肩をつかんで首筋にナイフをあてた。

流れ出る血に洗い立ての髪がべったりとくっついた。彼女は驚いて反射的に持っていたリードを放してしまい、友達の柴犬はどこかへ行ってしまった。彼女の魂もじきに、このまま俗世間から解き放たれ天国へと旅立つだろう。犬の泣き声の心配をすることはもうない。

タケルは誇らしい気持ちだった。いいでしょ、もう何も気にすることなんてないんだよ。明日の朝食も、どんな服を着たらいいのかも。

ほんの少しの会話だったけれど楽しかった。先ほどの笑顔から一転し、驚いたような顔は凍り付き少し残念だった。さようなら。名前も知らないけれど、きちんと座らせてあげよう。この儀式のような様を誰にも見られず、なんて奇跡のような出会いなんだ。短い偶然の中、耽美な空間を共有できて良かった。彼女もタケルも自由な気分だと思っていた。大量の血液は鉄のにおいがする。

女性を座らせていたら、タケルの膝先に柴犬の毛の感覚があった。あ、お前か。先ほどのおとなしい君。帰ってきたのかい。お前がふがいないから、仮の飼い主が死んでしまったよ。せめて君だけはここにいてやりなよ。お前など、殺すつもりはない。まあ、野良犬になるかどうかはお前次第だ。でも、僕のことは忘れるんだ、と柴犬に手をふった。

 
※本記事は、2020年7月刊行の書籍『双頭の鷲は啼いたか』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。