「そのあときみは、それ以上のことは確認しないで円谷先生の部屋に行ったんだね」

「はい。でも……わたし、そのあと、また上原先輩を……」

「見たの? それはいつ、どこで?」

「円谷先生にお会いできなかったので階段までもどったら、女子生徒が階段をおりかけてて……すぐにはだれかわからなかったんですけど、踊り場で曲がったところで顔が見えて……なんだか、すごく急いでるみたいでした。それで、わたしもそのあと、一階までおりたんですけど、そしたら今度は、庭に先輩がいるのが見えたんです」

「庭? 庭って?」

「あ……えと……中庭です」

「彼女、そこでなにをしてたの?」

「わかりません」と祥乃は首を振った。

「植えこみの前にかがみこんでました」

「植えこみ? 校舎の下ってこと? それってもしかして、この教室の下あたり?」

少し考えこんでから、祥乃は「あ、はい……そうです」とうなずいた。

「でも、上原先輩、わたしの気配に気づいたみたいで、すぐに立ちあがって、走っていってしまったんです」

「ふうん……」

「あの……でも」

祥乃が、ふたたびなにかをためらうように爪をかんだ。

「なに? どうしたの?」

「そのあと、わたし、ひろったんです。これを……」

祥乃がスカートのポケットから取り出したのは、飾り気のないベージュのシュシュ。

「上原さんの……?」

「たぶん、そうだと……」

祥乃は、振りしぼるように答えて、そのまま下を向いた。沈黙のすきまを、秩序とは無縁のざわめきが埋め尽くしていく。

そのざわめきの中から、「うそでしょ……」というかすれ声が漏れた。

教室にいた生徒が、いっせいに声の方向に顔を向ける。

うしろ扉の近く、怒りとも驚愕ともちがう奇妙な表情を貼りつけたまま立ち尽くしていたのは、満田穂波だった。

「満田さん―」桂衣子の相貌が凍りつく。

夢遊病者を思わせる足どりで身体をふらつかせながら、穂波は、一歩前に出た。あえぐように震える口から、ようやく聞きとれるほどの声がこぼれ落ちる。

「佐希が……?」

穂波の言葉だけに反応するように「はい」と言うと、祥乃は顔をあげた。

その顔に浮かんでいたのは、心ならずも背負ってしまった荷物を、ようやくおろすことができた人間の安堵だった。

※本記事は、2021年4月刊行の書籍『六月のイカロス』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。