『復古記』の編者は、この案がこの通り決裁されたかは不明だが、参考のため記録しておく、としている。

この他にも、小浜、鳥羽、延岡、福山、大多喜といった藩の名が1月半ばまでに問責対象として掲げられ、また他に、鎮撫使が進軍していく過程で不審の藩として種々難癖を付けられる藩も出た。

なお、特筆すべきは、後に会津藩と共に「朝敵」として戦闘を仕掛けられた庄内藩の名が、この段階では全く出てきていないということである。

上記以外の全国諸藩も、徳川慶喜追討令によって薩長、旧幕のいずれに与するかの選択を迫られることになったが、錦旗の出現が「官軍」対「賊軍」の構図を作り出したため、比較的短期間のうちに多くの藩が薩長側に付くことになった。

これは、親藩、譜代、外様という徳川宗家との関係の親疎のいかんにかかわりなかった。特に関西以西では、倒幕派雄藩が存在したことや、地域毎の大藩が率先して恭順の立場をとったこともあって、各藩ほぼ一様に薩長側に付いた。

中には鳥羽伏見戦直後藩主が藩士に対して「当藩は徳川の恩顧に殉じる」と下達し、徳川救援の兵を出さんばかりの藩もあったが、日ならずして態度を180度転換させている。

かくして、薩長軍は次第に新政府軍となっていった。

それでは、討伐対象とされた諸藩は、どのような目に会ったのだろうか。別途取り上げた会津藩以外の諸藩について見ていくこととしたい。

※本記事は、2019年11月刊行の書籍『歴史巡礼』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。