序 ─ 嘉靖九年、われ自宮(じきゅう)し、黒戸(ヘイフー)の宦官となるの事

老魏(ラオウェイ)の住居は、古びた長屋をいくつにも仕切った、そのうちの一角であった。すぐさま牀几(ベッド)に寝かし、腫れあがった顔面を、水で濡らす。

「う、う」

「痛いか。すまんな。あれでも手加減したんだ、骨までは折れてないと思うぞ」

二匹の猫が、顔をのぞかせた。黒寅と三毛である。黒寅のほうが、私と趙大哥(チャオターコウ)のあいだに割って入り、ふとんの上にとび乗った。老魏(ラオウェイ)が、のどを撫でさする。

「すまんが、そこの、棚の上に、乾し魚があるから、猫どもに、やってくれ。腹をへらしているんでな」

「ここで、飼ってるんですか?」

老魏(ラオウェイ)のかわりに、趙大哥(チャオターコウ)が、こたえた。

「ほんとうは、禁じられているのだがな。ながねん一人暮らしでやっていたら、動物の一匹や二匹、飼いたくなるのは人情だ。見のがしてやれ。絶対に、他人には言うなよ。もし知られたら、ただではすまんからな」

「どうなるんですか?」趙大哥(チャオターコウ)の目が、するどく光った。

「殺される」

「猫がですか?」

「飼い主がだ」

「まさか」「その、まさかなのだ」

「……猫を飼っているのがばれたくらいで、殺されるんですか」

「叙達(シュター)、おぼえておけ」

趙大哥(チャオターコウ)のひとさし指が、私の胸をトントンとたたいた。

「宮廷内外には、密偵がうようよしている。『東廠(とうしょう)』というのだ。治安維持を旗印に、そこかしこを徘徊している。外見は、ふつうの宦官と見分けがつかないが、その主な仕事といえば、密告と逮捕だ。帝室の陰口をたたいていないか、政策に文句を言っていないか、反乱の徒党を組んでいないか。彼らはなに喰わぬ顔をして、人の話に聞き耳をたてている。名目上は、風紀の取り締まりだが、そればかりではない。奴らは些細なことにかこつけて、われらを断罪しようとする。目をつけられたら、終わりだ」

老魏(ラオウェイ)も、大まじめな顔でうなずいた。

「以前、鳩を飼っていた宦官がいた。毎日、仕事がおわれば、喜々として鳩のところに帰っていく。面倒見もよくての。自分が食わなくても、鳩には食わせるような人じゃった。ところが、ある日とつぜん、東廠(とうしょう)に踏み込まれた」

「どうしてですか?」「寇賊との接触を疑われたんじゃよ。鳩は空をとぶじゃろう。鳩をつかって、蒙古(モンゴル)の残党と密通している、とな」

下あごが、しぜんに下がった。

「もちろん、根も葉もない言いがかりじゃ。その宦官は無実を晴らそうと大理寺(だいりじ)に訴えたが、そっちの方もすでに東廠の手がまわっていて、握りつぶされた。そして、彼は殺された。確証はないが、どうも、彼の師父が、東廠にたれ込んだらしい。その宦官がいなくなれば、その分の給金は、師父のふところに入るしくみになっておるからの」

不正無法が行われるのは、少年時代から、何度も見て来ている。しかし、この宮廷でもそうだとは。

「正しい言い分など通用しないと、思っていたほうがよい。事実を隠蔽し、ありもしないつくり話を事実に仕立てあげるなんて芸当は、彼らにとっては朝めし前だ。こっちの主張が正しくても、まかり通るのは、むこうの作りばなしのほうなのだ。だから、ここで猫が飼われていることは、絶対に言ってくれるな。何がしょっぴかれるもとになるか、わかったものではないからな」

老魏(ラオウェイ)が嘆息した。

「むかしは、もっと大らかじゃった。猫くらいで、目くじらを立てられるようなことはなかった。じゃが、嘉靖帝が即位なさってから、規律がきびしくなってしもうてのう。ゆるんだ空気が一掃されたのはいいが、一歩まちがうと、身におぼえのないことで、かんたんに命を落とす。叙達(シュター)、おぬしも、気をつけろ。用心深くあらねば、足もとをすくわれるぞ。どこに目や耳があるか、わかったものではないからな」

これが、二十五歳になったばかりの嘉靖(かせい)九年冬、忘れもしない、大明朝宦官としての第一日目であった。 宮廷に入りさえすれば、安定した生活が営めるはずだったが……外からながめているだけでは想像もできないことが、たくさんある。  

はたして、やって行けるのだろうか?

風声鶴唳嫰草(かくれいどんそう)を驚かす――退路はない。

※本記事は、2018年12月刊行の書籍『花を、慕う』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。