引っ越しの準備を始めた。すべてを運送会社に依頼した。米とか醤油とかも荷物に入れることにした。船便で二か月以上かかるといわれた。発送はカナダの住所が決まってからになる。

政裕が単身で出発し、現地で住居が決まり次第妻と二人の子供を呼び寄せることにした。渡航の費用、航空券の購入と当座の生活費などは退職金などでなんとかなる。

どうして政裕たちの移住を知ったのか静岡新聞の記者が自宅に取材に来た。翌日家族写真入りの記事が載っていた。

静岡県庁の移住事業団にお礼の挨拶に出向いた時、県知事の激励文の色紙と金一封が贈られた。そこでも新聞記者のインタビューを受け、抱負など聞かれたが何を言ったか覚えていない。

出発の日、天龍実業に出向し社長に会ってお別れの挨拶をし、羽田空港に向かった。はがきで簡単な挨拶状を出していたので、空港で埼玉の会社に勤めていた時の同僚先輩や大学の学友の見送りを受けた。

後日、妻子が浜松を出発した日、新幹線のホームで天龍実業社長夫人と女子従業員たちのお見送りを受けたそうだ。

当時は海外移住がそんなに珍しかったのだろう。

一九七三年五月、政裕四十歳、晴子三十四歳、朗子八歳、晋平七歳の時だった。

人生の三回目の分岐点を通過したことになる。

※本記事は、2021年8月刊行の書籍『波濤を越えて』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。