弘徽殿大后(こきでんのおおきさき)

帝の後宮は、女性たちの競争心と嫉妬心の渦巻く世界である。桐壺帝の後宮で、弘徽殿女御は第一皇子の生母であり、第一皇子は、やがて東宮、さらに帝(朱雀帝)となられたのだから、弘徽殿女御は、桐壺帝に仕えていた多くの女御や更衣たちの中の勝者である。

しかし、それに至るまでの日々やそれ以後の日々、勝者と言えども、安穏に過ごすことができたわけではない。

桐壺帝は桐壺更衣を寵愛され、しかも玉のような第二皇子(後の光源氏)が生まれて、帝がこの皇子をこよなくかわいがられるので、弘徽殿女御としては、第一皇子を超えて第二皇子が東宮に立たれるのではないかと、気が気でない。弘徽殿女御が桐壺更衣と二の皇子に激しい敵愾心(てきがいしん)を燃やすのは、無理からぬことであるが、やがて第一皇子が東宮となり、弘徽殿女御はようやく安堵した。

桐壺更衣が亡くなった後、桐壺帝は、藤壺を迎えられた。藤壺は、先帝の姫君であり、帝は、藤壺をとても大事になさる。しかも、藤壺と二の皇子は、たいへん親しそうにしている。その様子を見るにつけても、弘徽殿女御は、桐壺更衣に対すると同様、あるいはそれ以上に焦燥感(しょうそうかん)にかられる。

案の定、帝は、藤壺を中宮になさった。東宮の生母である弘徽殿女御をさしおいての措置であるから、尋常ではない。

帝は、「近い時期に東宮が帝の位に即かれる。そうなれば、あなたが皇太后になられるのは間違いないから、落ち着いていなさい」と言われるが、弘徽殿女御は、得心することができなかっただろう。

桐壺帝の譲位と東宮の朱雀帝としての即位があり、それに伴って、藤壺所生の若宮(桐壺帝の第十皇子であるが、実父は光源氏)が東宮に立たれた。桐壺院が亡くなられて、政治の実権は、右大臣と弘徽殿大后の手中に帰した。

朱雀帝の治世は、足かけ九年(桐壺院が亡くなられてから数えれば、足かけ七年)、弘徽殿女御のわが世の春であるが、その間、太政大臣(もとの右大臣)が亡くなり、大后自身も病気がちであるなど、わが世の春を謳歌(おうか)することができた期間は、わずかでしかなかった。

朱雀帝が退位されて、第十皇子が冷泉帝として即位されると、政治権力は、右大臣の政敵であった左大臣と内大臣となった光源氏に移った。弘徽殿大后は、皇太后であるとはいうものの、今では勢威を完全に失った。弘徽殿大后は、現在の境遇を情けないものと嘆いている。

かつて復讐の念に燃えていた光源氏の勢威を目の当たりにするにつけても、その感が身に沁みたことだろう。弘徽殿女御は、帝の後宮の勝者であったが、その行く末はかくのごとくであると、紫式部は書いた。高級貴族は、自分の娘の入内を夢見るが、実現してどれほど価値のある夢なのかと、紫式部は問いかけている。

(1) 春宮(とうぐう)の御世よ、いと近うなりぬれば、疑ひなき御位くらゐなり。思ほしのどめよ

(2) 大后(おおきさき)は、うきものは世なりけりと思し嘆く