山麓には民家が何軒か見え、磐梯山を取り囲む「お堀」のように秋元湖が光る。その後、馬の背と呼ばれる細い登山道を進む。強風のときは怖そうだ。中年夫婦が腰を下ろして休んでいた。

「ここが矢筈ヶ森ですか?」

と私が旦那さんに聞くと、

「さあ? 初めてなのでわかりません」

旦那さんは逆に、私に今日はどういうコースを歩くのかと質問してきた。見れば靴から帽子まで新品で、腰を下ろしている奥さんも新品の山支度だ。

「どうやるの?」

奥さんは、針金が巻きついた知恵の輪のような水筒の蓋の開け方がわからない。

「ちょっと、お借りしますね」

奥さんが私の手元を見つめる。「スポン!」と良い音がした。

「そうやるのか……」

二人は(良かったなと)顔を見合わせてニッコリ。私はさっきからこの夫婦は、どこか岳人とは違うと思った。二人揃って、ただ山支度が新品というだけではない。幼稚園を卒園する子が初めてランドセルを背負ったようで、山の服装が着こなせていないのだ。

横に置いてある、大小二つの同じガラのザックを見下ろしながら、私が、「良いザックですね」と話しかけると、「そうですか、このリュックサックいいですか」と笑顔になった。

リュックサックとは、懐かしい言い方だ。岳人は大抵ザックというが。旦那さんは純粋な目を私に向けた。

「昨日、市内の運動具店に行って、女房と二人で全部買い揃えてきました」

「凄いですね、一気にですか」

「一気も何もないですよ。今日から山を始めたんですから」

山で会ってもすぐに親しくなり、話が弾む人がいる。いままで子育てと仕事に追われていたが、やっと二人で楽しめる共通のものをと思って、今日から山を始めたという。私は「二人に幸多かれ」と祈らずにはいられなかった。

ピカピカ夫婦と別れて、私は稜線を登り、安達太良山の頂上に着いた。1709メートルの頂上には、石の(ほこら)があった。人が急に増えてきた。登山姿でない人が多い。続々とやってくる。ドライブのついでに足を延ばして、ロープウエーに乗り、ここまで来たような感じの人たちばかりだ。もう静かな山の雰囲気はなくなった。私も帰りはゴンドラでラクして下りようと山頂駅に向かった。

※本記事は、2021年4月刊行の書籍『山心は自粛できない』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。