一九三七年(昭和十二年)父親が糟糠の妻と離婚し、日本人妻を娶る事態になって、正真は、金庫から半分近い金を持ち出して単身東京に出奔した。上野駅に荷物を預け、御徒町の問屋街を歩き、雇用してくれる商店を探して歩いたが、運よく五軒目の「まる(シチ)機械工具商店」で、店主に身分を明かした上で採用された。店主は、標準語に近い日本語を話す十五歳の少年を住み込みで雇用した。李正真、即ち、日本名、井上正の丁稚奉公が始まった。

終戦後、御徒町の問屋街は東京大空襲を免れ、従業員も全員無事で再会を喜び一同団結して精進することを誓った。まる七機械工具商店も忙しい毎日が続いた。

昭和四十年(一九六五年)に日韓の国交が正常化されると、韓国から買い付けに来る人々が訪れ、注文品を通関業者に梱包させ輸出手続を代行させることが多くなった。正真も、すでに三十四歳近くになり、独立することを考えていた。

現在の韓国との取引状況からして、韓国との取引だけで十分やれると判断した正真は、店主に退社を申し入れた。店主は快く受け入れ、長年の功労に感謝し、慰労会を催してくれ金一封を贈呈した。退社後、個人で共立貿易を名乗り、日韓貿易を始めたが、登記しないで取引を続け税務申告をしていなかったため、税務署の査察が入った。

この時、李は、裏経理帳簿を見せ、利益が出ていないことを説明した結果、査察官も納得して課税されなかったが、今後青色申告をするよう指導された。

しかし、事業も順調に伸びていたし、税務署の査察も入ったので、このままの形で事業を継続するのは難しいと判断し、御徒町の住民になってから付き合ってきた友人や、取引先の友人たち四人に韓国との取引先名簿を見せて、これから日韓貿易が拡大していくと縷々説明し、一〇〇万円ずつ出資を仰ぎ、昭和五十六年十一月資本金五〇〇万円の共立商事株式会社を設立した。

そこで、これまでのアパートの自宅兼事務所から京橋ビルの一室を借りて立派な社長室を準備し、初めて女子事務員を募集し、数名の志願者の中から、好みの女性一名を採用し、総勢二名の新会社がスタートした。

※本記事は、2021年6月刊行の書籍『破産宣告』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。