──2006年11月の県知事選挙で失業率改善を公約の一番手にもってきた大きな理由は何でしょうか。

復帰後の沖縄は失業率が6~7%と最悪でした。失業率9%台の時期もあります。失業者があふれ、政治、社会的にも大きな問題になっていました。

仲井眞

全国が高度経済成長に湧いていた頃、日本(本土)復帰後の沖縄県は経済成長の恩恵を受けられず高い失業率に悩まされ続けていました。

産業基盤や生活基盤、教育、福祉、人権などハード・ソフトを問わず、全ての面で立ち遅れが目立ち、歴然とした「格差社会」だったのです。

私は通産省(現在の経済産業省)時代の1980(昭和55)年に沖縄総合事務局(当時の沖縄開発庁の出先機関)通産部に赴任して、産業部門を中心に2年半程務めました。

その時気づいたことは新規企業の発生(起業)は多いが、その代り廃業も多いという沖縄の特殊な企業形態でした。要するに産業がなかなか育ちにくい風土があって、そのため長期雇用の場が確保しにくい。

また、他県に比べて人口が著しく増えた復帰後の現象があったため、働ける若年労働力の増加に対して、雇用を吸収できる企業の数が追いつかないなどの状況がありました。

そのほか色々問題があって失業率をめぐる当時の沖縄の世相は議論百出の印象でした。私の前に二期8年間、県知事をなさった稲嶺惠一(いなみねけいいち)さんの頃まで、そのような議論が盛んだった気がします。

だが産業界出身の稲嶺知事はさすがでしたね。

地元経済界と論議を重ね、東京の経済同友会の皆さんの知恵や助言を活かしてIT(情報通信技術)など先端産業を創出できる産業基盤を着実に整えました。企業誘致にも力を入れ、その結果、失業率の改善に変化が出始めました。

結局、私は

「産業を興せば沖縄の失業率は必ず改善できる」

とシンプルな思考をもとに失業率の改善に取り組みましたが、基本的には稲嶺さんの経済路線を引き継ぎ、それを加速させていったのが真相といえます。

ただひとつ言わせてもらえれば、沖縄総合事務局にいた頃、造船技術や食品加工に至るまで実に200から300種に及ぶ業態のなかで、小規模ながらも次々と新規産業に取り組む沖縄産業界のバイタリティーに触れた経験があります。

本土とはひと味違って、そこには自立、独立の精神に満ちた旺盛な起業家魂が存在していました。倒れてもすぐに立ち上がる沖縄独特のダイナミックな発想がありましたよ。

その時以来、沖縄の産業は自立できるだけの強さを内在していると信じていました。自立経済の可能性が十分にありました。だからこそ、県知事選挙ではアジア地域に隣接する沖縄の地理的優位性と県民の気質を生かした新たな産業が必ず興せる、と自信をもって訴えたのです。

産業基盤を確立すれば失業率は自ずと改善できるという信念がありました。

※本記事は、2020年11月刊行の書籍『自立自尊であれ』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。