第3章 マネジメントから見た司教団の誤り

1.ピーター・F・ドラッカー 『マネジメント』

司教団も、1976年1月の文書 『日本における宣教について』の中で、「宣教活動は福音を告げる人とこれを聞く人との両者があって成り立つのであるから、人々の協力を得ることが極めて大切である。」と述べている。話を聴いていてもらわなければならない。

大切なのは「目的の実現」である。使徒パウロの言葉をかみしめてほしい。パウロは、「わたしはすべてのことを福音のためにしています。」と語っている。[コリント人への第一の手紙 9:19~9:23](日本聖書協会・新共同訳)

わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。

ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。

また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。

弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。

福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。

それは偽ろうというのでなく、「福音」を伝えるため、相手の心を閉ざさぬためである。目的は福音を伝えることで、自分の主義主張ではない。宣教にマイナスになることはしない。

必要な資質は、おそらく「謙虚」だろう。

加えて「思いやり」があるだろう。「人情」というものである。人の情の分からぬ者に、宣教は難しいと思う。

相手がどう感じるかということへの、繊細な気配りが必要である。自らを隠して甘言を述べるのではない。そんなことでは永続した信頼につながらぬことを、ちゃんとした企業マネージャーなら知っている。

偽ってはならない。しかし本質(宣教)に関係のない余分な言動をしてはならない。

「開かれた教会」という言葉がひと頃よく使われた。開くべきは教会でなく相手の心である。長嶋茂雄氏や王貞治氏が現役時代(おそらくは現役引退後も)、政治的な発言をしたことがあるだろうか。私は聞いたことがない。

それは彼らに政治的主張がないからでなく、自分のファン、広くは野球ファンへの配慮からである。ファンの中には自民党支持者も共産党支持者もいるだろう。自分の役目はそれらすべての人が球場へ足を運んでくれるようにすることである。

私の大好きな指揮者・大植英次氏が分かりやすく語っている。「個人的には支持政党もあるが、指揮者としては絶対に口外しない。演奏会とは、意見を異にする政治家たちも一堂に会し、ともに音楽を楽しむ聖域と心得ている。」(2005年5月2日付日本経済新聞朝刊)

カトリック信徒の中にも、いろんな政治信条を持つ者がいる。司教団とは違って、憲法改正賛成論者もいるだろう。日の丸大好きの者もいるだろう。神社へ参拝する人もいるだろう。

未信徒で、これからカトリック教会を訪ねたいと思う人には、さらに多様な考えの方がおられよう。司教団の一方的な政治的・社会的言動は、異なる考えを持つ者へのバリアである。私自身、今の司教団の言動を聞いていたら、カトリック教会へは近づかなかっただろう。

私は現在の、日本のカトリック教会の沈滞は、司教団の言動に第一の責任があると思う。

神父、修道者、信徒、――全体の責任と司教団は言うだろうが、現状を変えることができるのは司教しかない。神父はある意味、一人一人孤立した存在である。集団で行動することはできない。そして人事権は司教が握っている。

司教団が変われば、日本の教会は変わると思う。司教団のみが変えられると思う。私は常々、「昔大本営、今司教団」と言っている。

戦前の昭和史を調べているが、大本営の中にもまともな考えの人は多数いたのである。日米開戦に反対の人はいた。開戦後もできるだけ早い停戦を求め、建議した人もいた。

しかしそれらの意見は封殺されてしまった。封殺者側に多くの報道陣(マスコミ)があったことは、忘れてはならない。

司教団の中にも、現状に納得していない方はおられよう。いなければおかしい。どなたか、お一人でもお二人でも、声を上げていただきたい。今の司教団は、「一致団結」しているのがおかしいのである。

一人、二人、声が出れば、司教団は変わると思う。その方を支える信徒は、おそらくびっくりするほど多いはずである。何か、今と違った発言を求めるのではない。「発言しない」だけでいいのである。  

※本記事は、2019年4月刊行の書籍『マネジメントから見た司教団の誤り』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。