二週後、AはX JAPANのメンバーが被っている赤い帽子を欲しがった。父親は何とか金を工面し買いに行ったが、閉店で買えなかった。訳を聞いた息子の目が細まり、拳が唸った。

中学二年の二学期、ついに登校できなくなった。小学一年生から続いた皆勤記録はここでストップした。不登校になると、昼間からビデオを見るようになった。プロレスのビデオの録画予約は父親の役目となった。

公判で父親は「息子は神経質でした。録画一分前からスイッチを入れ、きちっと録ることを要求しました。一度使ったテープがダメで、いつも新品を四、五本準備しなければなりませんでした。録り終わると、きちんと巻き戻しておくことを要求されました」と語っている。

母親に対しても暴力は続いた。「一分間でオニギリを買ってこい」と商品名を書いたメモを渡した。製品がなく、代わりの物を母親が買ってくると「違うじゃないか」とオニギリを床に叩きつけ踏みつけた。

家庭内暴力が始まってまもなく、両親は東京都内の思春期専門の精神科クリニックへ月に一、二回のペースで通った。そこでも「暴力で返してはいけない。土下座するのも一つの技術ですよ。刺激を与えてはいけない」と言われ、無抵抗を押し通した。

しかし暴力は日常化した。テレビ番組の録画、洋服の買い走り、ビデオショップやコンビニへの使い走りをさせられながら両親は暴力に耐えた。

法廷で父親は証言した。「息子は、二年間、暴力を振るい続けることによって、暴力に慣れ、暴力にのめり込んでいきました。そして、私のほうも暴力を受け続ける中で、自分の中の何かが少しずつ変わっていったと思います。私が息子に抱いていた気持ちは、(最後の段階では)モノに近いものだったように思います」。

一九九八年十一月六日朝、父親は軍手をはめ、縄跳びのロープを持ち、金属バットを握りしめAの部屋に入った。父親は、寝ているAの後頭部を金属バットで数回殴り、三分間縄で首を絞めて殺害した。その後、放心状態のまま自首した。

新聞報道は公判の模様を次のように伝えた(読売97・3・18)。

弁護側は、「繰り返される暴力で、極度の緊張、睡眠不足、肉体的苦痛が重なり、持病のうつ病もあって選択肢を失った」「父親は精神科医から『暴力に立ち向かえば、もっと激しい暴力を引き出す』と無抵抗を指示されたこと、『子どもの暴力は親の責任。暴力を受けとめ、殴られ続けられることが子どもを守る道だ』と考えていた」などと訴えた。

東京地裁の判決の新聞の見出しは次の通りであった(読売98・4・17)。

一面トップ「金属バットで長男殺害『父親に懲役三年の実刑』」「努力の余地あった」「動機は同情」。社会面「金属バット殺人実刑判決『なぜ暴力、見えぬまま』」「うずくまる被告席の父、目閉じ聞き入る妻、長女」「悲劇の背景踏み込めず」。

父親は、「減刑も執行猶予も求める気持ちありません」と法廷できっぱり応え、実刑に服した(読売夕刊98・4・17)。

※本記事は、2020年3月刊行の書籍『爆走小児科医の人生雑記帳』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。