1862年になると京都の街には急進的な攘夷派による「天誅」と称する残虐なテロが荒れ狂うようになった。この頃の急進的攘夷派の中心は、この年7月に藩是を攘夷に変えた長州藩で、急進派の公卿やテロリストと組んで朝廷をも意のままに動かすようになった。その閏8月、幕府は激化するテロに対処すべく、京都守護職なる職を設け、会津藩主松平容保をこれに任じた。

長州藩は、1863年5月には関門海峡を通過中のアメリカ船を、次いでフランス船、オランダ船を砲撃した。しかし、急進攘夷派のあまりに過激な動きは、孝明天皇の意向に沿うものでもなかった。朝廷内が急進派の公卿たちによって掻き回され異常な状態になっていることも、天皇にとって我慢のならないことであった。

かくして1863年8月18日、天皇の意を汲んだ薩摩藩が主導し、藩主が京都守護職の会津藩、藩主が京都所司代の淀藩などの藩兵が加わって、三条実美ら攘夷急進派の公卿と長州藩を御所から追い払った。翌日、長州勢と三条たち7人の公卿が、長州を指して京都を去っていった。「8月18 日の政変」である。

孝明天皇には、幕府への政務委任の現状を変える気はなかった。幕府は公武合体路線により、取り敢えずは一息つくことができた。翌1864年7月19日、復権を狙う長州藩は京都に兵を進め、御所を守る幕府側と戦闘となったが、これも長州側の敗北で終わった。「禁門の変」または「蛤御門の変」と言われるものである。

そして長州藩は、御所に向かって発砲したというので「朝敵」とされ、直ちに長州追討の勅命が下り、幕府は西南諸藩に出兵を命じた。当時長州藩は、関門海峡での砲撃に対する報復として、6月には米国次いで仏国軍艦に攻撃され、さらに8月初めには英・仏・蘭・米4カ国連合艦隊の攻撃を受け、ただでさえ苦しい状況にあった。

このため長州藩では幕府への恭順派が藩政を奪い、禁門の変にかかわった家老3人に切腹を命じ、また参謀4人も斬罪に処して謝罪した。これによって追討軍は戦わずして解兵となった。

※本記事は、2019年11月刊行の書籍『歴史巡礼』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。