鳥羽伏見戦争まで

1603年に徳川家康によって始められた徳川幕府は、1853年6月、アメリカのペリーが軍艦4隻で浦賀へ来航し開国を迫ると、大きく揺れた。幕府はそれまで、外交を含め、すべての政務は幕府が朝廷から委任を受けているとして、独断でこれを処理してきた。

しかも、それは、譜代の中小規模の藩から選ばれた数名の老中たちによって専断され、他の大名たちは、大大名といえども親藩・譜代・外様を問わず、蚊帳の外に置かれていた。しかし、外国船の出没により、多くの藩が藩を越える日本国の政策に関心を持つようになると、有力諸藩を中心に幕政への参画を求める空気が醸成されていった。

幕府の方でも、ペリーへの対応以降は、諸侯、時には庶民に至るまでの意見を求めるようになり、1858年の日米修好通商条約の調印に当たっては、さらに天皇の同意を得ようとした。天皇は攘夷の意向の強い孝明天皇で、容易に条約を認めようとしなかった。かくして国中が開国か攘夷かで沸騰し、対立した。

当初それは開国か攘夷かという政策を巡るもの、せいぜいそれに絡んで幕府首脳部の入替えなど幕政の改革を求めるものであったが、やがてそれが倒幕の動きとなっていく。この時期にはまた、将軍の継嗣を巡って幕府首脳と有力大名との間で対立が起きた。

この時期の主要な出来事を示すと、1858年4月、井伊直弼、大老に就任。6月、井伊、天皇の同意なしで日米修好通商条約に調印。井伊、一橋慶喜を推す有力大名たちを押し切って、紀州藩主徳川慶福を将軍継嗣と発表。7月、井伊、慶喜を推していた前水戸藩主徳川斉昭、尾張藩主徳川慶勝、越前藩主松平慶永に隠居や謹慎などの処分を下す。8月、水戸藩に対し、「幕政については、群議によって国内治平などの実をあげるべし」とする密勅(「戊午の密勅」)が下る。9月、安政の大獄(井伊による反対派への弾圧)始まる。

1860年3月、桜田門外の変起こる(井伊、攘夷派に殺害さる)。1861年3月、藩士長井雅樂の「航海遠略策」建議により、長州藩は公武合体を藩是とすることになる。1862年2月、公武合体派により、和宮と将軍家茂との婚儀(降嫁の勅許は1860年10月)成る。安政の大獄で橋本左内を失った松平慶永や吉田松陰を失った長州藩士たちは、この後幕府に対する批判的あるいは反幕的立場を強めていくことになる。そして桜田門外の変は幕府の権威を揺るがす事件の一つとなった。