〈野崎哲也の事情〉結局音楽じゃないの?

2011年10月末。

気の早いクリスマスツリーが街に現れ始めた頃、私(野崎哲也)は10年勤めた大手食品メーカーの仕事を辞めた。長年の夢だった音楽教室を立ち上げるためだった。

私が退職を申し出たとき、職場の誰もが耳を疑っていた。私が会社を立ち上げることも、私が音楽に精通していることも誰一人知らなかったからである。

職場での私は物静かを絵に描いたような真面目な人間だった。

入社当初から真面目に働いていた私は、上司や先輩から“扱いやすい部下”として評判が良かったように思う。コミュニケーション能力はお世辞にもあるとは言えなかったが、その分誰にでも敬意を払って接するように心がけていた。一方で半世紀以上も前に作られた会社の古いルールが作業の効率を落としていることに疑問を感じ、その変革にも乗り出していた。当然、そんな私を煙たがる上層部の人間も少なくなかった。

入社して8年が経った頃、他社の食品加工工場で起こった異物混入事件のあおりを受けて、イメージが悪くなった工場は、原油の高騰も相まって創設以来最大の経営難に陥った。異物混入を防ぐために、チェックや監視が義務化され、それらの人員配備による作業効率の低下や、監視カメラなどのセキュリティ強化による出費も経営難に拍車をかけた。

当然のように作業員たちからは不満の声が上がった。

打開策を打ち出せなかった上層部は、責任を押し付けるように、当時主任だった私を製造ラインの責任者に押し上げた。それはちょうど人員整理の話が周囲でちらほら聞こえるようになってきた頃で、職場の雰囲気も最悪だった。

そんななか責任者になった私は、製造ラインの管理・改善に取り組んで状況を変えようとした。まず私は各グループの作業工程と人員配置を見直す提案書を作成し、積極的に製造ラインの変革に乗り出した。

昔からの古いやり方を守ろうとする上層部は、はじめはこれを面白くなく思ったようだが、私はなんとか彼らを説得することに成功した。私の提案は結果的に功を奏し、製品のロスを激減させ、外注費や燃料費の大幅なコスト削減につながった。

作業員たちの負担は少し増えたものの、このピンチを見事に乗り切ったことは、社内的に高く評価された。

こうして部下や上司たちから信頼を得た私が、突然退職を申し出たものだから、さすがの頭の堅い上層部も慌てて慰留に努めてくれた。だが、私の意志は固かったので、結局退職するに至ったというわけである。

30歳を過ぎた身で安定した立場を手放し、畑違いの音楽教室を始める私に対して、周りは皆、首を傾げるばかりだった。

食品加工会社を辞めて1年が経った。

音楽教室を始めるために奔走した1年だった

身体にかかる多少の無理は承知のうえだったが、まさか自分が心臓の病で制限のある生活をするようになるとは思ってもいなかった。目覚めると決まって目の前に無機質な天井が現れた。かつては天井に広がるいびつな模様を数えたこともあったが、その行為に何の意味もないことに気がつくまで少し時間がかかった。

薄っぺらいカーテン1枚で仕切られたプライベートルームは、畳2畳半程度の広さで、自分が横になっているベッドは、そのスペースの半分ほどを占領している。ベッドの隣には簡易型の冷蔵庫が設置されており、その上にはスイッチを入れたこともない薄型テレビが置いてあった。

カーテンの隙間からクリーム色のスライド型の扉が見えた。その手前には赤いラインが引かれ、赤いラインの向こうには担当医師の許可なく行くことができない。手術をうけたばかりの私は、しばらくこの狭い世界にいることしかできなかった。

「おはようございまーす!」

毎朝8時にこの声が聞こえる。同時に大きな台車が病室の前で止まる音が聞こえ、男性看護師が、トレイに乗せられた食品サンプルみたいな朝食を運んでくる。朝食の合図で同室の患者たちが一斉にカーテンを開ける。

同室には私のほかに3名の患者がいたが、皆無口で元気に「おはよう」と挨拶をかわせるような雰囲気はなく、目が合えば会釈をする程度だった。

「おはようございまーす。失礼しまーす」

朝食のトレイを持った男性看護師が、自分のいる病室にずけずけと入ってきた。彼は食事が乗ったトレイを各ベッドに設置されたテーブルの上に置き、いつも天気の話をしてから去っていった。その姿はまるで、プログラムされたロボットのようだった。

私はベッドから半身を起こすと、自分の身体の動きを確認するようにゆっくりと立ち上がった。「ふぅっ」と呼吸を整えてから窓の外に目をうつす。

入院したときはベッドの位置などどこでもいいと思っていたが、今では窓側のベッドが割り当てられたことが幸運に思えた。この窓が、自分と外界を結ぶ唯一の接点に感じられたからだ。

景色の先に、イチョウ並木が見え、扇形の葉が黄色に色づいて秋らしい景色が広がっていた。これといってやることもない私は、毎日それをただ、ぼーっと眺めていた。

朝の食事が終わる頃、それを見計らったように看護師がやってきて検診が行われる。ここでも毎日変わらない会話を交わす。この行為に何の意味があるのか、私はだんだん理解できなくなっていた。

看護師から渡された体温計で熱を測りながら、私はテレビ台の上に置かれた充電中のスマホに手を伸ばした。スマホの時計は朝の9時を表示していた。

私は1週間前にペースメーカーを体内に埋め込む手術をした。

マッチ箱ほどの大きさの機器を埋め込んだ左胸に今のところ違和感はなかったが、切開した傷跡が疼くのを感じた。ベッドの横に吊るされた無色の点滴液が、左手に刺さった針をつたって身体に流れていた。1日が長く感じるのはこのゆっくり流れる点滴液のせいだろう。

近頃、私は眠れない夜が続いていたせいもあってか、気分がすぐれなかった。

墨汁で塗りつぶされたような深い暗闇と、時間の経過を感じさせない静けさが、私の思考をあらぬ方向へ働かせ、右にも左にも動けない気持ちを揺さぶった。今自分は生きているのか、生かされているのか、ベッドの上で寝返りを繰り返しながら、見えない敵と孤独に戦っていた。自分を苦しめる心臓の病は、第一級障害に該当し、国からの助成金を得ることができる。特に高望みしなければ一人で十分生きていける生活を保証されるのだ。

しかし、何もしなくてもいいということは、かえって何かをしなくてはいけないという不安と焦りを生み出した。それは恐怖にも似た感情だった。

私は逃れるようにインターネット上で自分と似た境遇の人たちが書いた闘病に関するブログを検索するようになっていた。この先、どう生きればいいのか想像がつかない私は、何か突破口のようなものを探していたのかもしれない。

しかし、どのブログを見ても、どこか他人事のように感じてしまい、どうしても自分の置かれている状況と向き合うことができなかった。

気晴らしにほかのジャンルのブログに目をやることもあった。

ファッション、育児、映画、芸能……。あてもなく、どこの誰が書いたかもわからないブログを読み漁った。

そこで見つけたのが、安藤大輔という男性の「世界一周ブログ」だった。ヨーロッパ、アフリカ、東南アジア、南米。どこも私の住んでいる場所とはかけ離れた世界の話だった。偶然見つけた安藤大輔のブログは興味深く、私にとって大きな救いとなる存在となった。

安藤は各国の路上でギターを演奏しながら旅をしていた。

この「弾き語り」と呼ばれるスタイルで生計を立てている人は「バスカー」と呼ばれている。バスカーというのは、どうやらパントマイムやダンス、絵描きなど、路上で芸を見せる大道芸人全般を指す言葉らしい。私はバスカーの存在をこのブログで初めて知った。

※本記事は、2020年4月刊行の書籍『旅するギターと私の心臓』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。