その謎、わが母校がはじまり

夫の稔(みのる)は自由だった。本当に、自由だった。いくつになっても末っ子気質の甘えん坊で、常識は、ひとさじ位はあるものの、自由奔放さは、漫画のキャラクターみたいだった。何か大きいことをする前に相談をしたら、妻に怒られそうで、マンションの購入も、会社を辞めるのも、妻には事後に報告をした。

その妻の和枝(かずえ)は、怖かった。とにかく怖かった。背が高く、軍隊にでも入っていたのかと思うほど筋骨隆々の体つきをしていたし、間違ったことは絶対に許せない性格だった。映画に出てくるアメリカの強い女、まさにそんな雰囲気で、子供たちは自分たちが学校に行っている間に、母親がどこかの悪の組織と戦っているに違いないと信じていたほどだ。

そんな二人が出会ったのは、都内にキャンパスをもつ私大だ。和枝の入学式の日だった。同じ大学の一年先輩が稔だ。あの日は、もう四十年以上も前になる。入学式の会場に向かう新入生や、クラブの勧誘をする学生たちでごった返す中で、福岡の貧しい田舎から上京してきた苦学生の稔には、山の手のお嬢様の和枝は一人だけ輝いて見えた。

彼女はハーフのような顔立ちに抜群のスタイル。身に着けているものは洗練されて、落ち着いていた。そんな子が、豊かな黒髪をなびかせ、こちらに歩いてくる。稔には彼女がスローモーションで見えた。上京してだいぶ経っていたが、稔は初めて本物の『都会の女』を目の当たりにしていたのである。「絶対にこの人と結婚する」と決意にも似た気持ちで、稔は和枝に声をかけた。

「お嬢さん。クラブはお決まりですか?」

声をかけられた山の手のお嬢様からは、ガリガリに痩せた苦学生は、とてつもなく新鮮に見えた。新鮮すぎて、今までゴリラと称されてきた自分を『お嬢さん』と呼ぶこの男は何者だと、警戒した。

男は、顔は整っているものの、冷たい牛乳を飲んだりしたら、お腹を壊して吐血してしまうのではないかと思うほど病弱そうだ。誰も髪を染めていない時代に、肩まである髪は栗色で、聞いてもいないのに「ファッション誌で勉強して買った」というジャケットは小豆色だ。そして地方から東京へ来た若者が全員穿いている、お決まりのラッパズボン。つまり、分かりやすく田舎者だった。

都会の洗練されたボンボンたちに囲まれていた和枝には、そんな輩は無縁の存在だったのに、何故かその時、立ち止まって話を聞き、煙草の匂いが染みついた本を借りてしまった。和枝は「私が支えてあげなきゃ」という弱そうな男が好きだったのだ。

携帯電話が存在しない時代。ものを借りるということは、その場で名前と電話番号を交換し、次に会う日時を約束して、再び会いに行くことを意味する。稔は内心ガッツポーズをし、和枝は変なナンパに引っかかってしまったような、釈然としない気持ちのまま家路についた。