「俺という男は女の《眼フェチ》に成り果てたのではないのか?」、と自身に問いかけることで、百合の影響力から脱しようとする。しかし、それもつかの間、すぐにそのような単純明快な思いつきも立ち消えてしまい、それに代わって日常の何気ない折に彼女の面影がふっと念頭に蘇ってくる。

それも顔の個々の造作などははっきりとしたイメージでは出てこない。彼女の目とそのまなざしだけがくっきりと浮かび上がってくるだけだ。これは頻繁にとまでは言えないまでも、何度か起こった。

女のまなざしということでは、はるか昔の高校生であった頃の記憶までもが蘇ってくることもある。どういう連鎖反応でそうなるのかはわからない。目をできるだけ大きく見開き相手の顔を希望と期待を込めて見つめ続けるというのは、タレントや女優志願の女の子に特によく見かけるお定まりの表情である。

それは単に顔つきや表情の浮かべ方というよりも、明らかに女の男への手管の一つといえるものだ。あるいはこの表情の浮かべ方は天性のもので、若い女には先天的に備わっているのかもしれない。

とにもかくにも、女の子の顔に浮かんだこの表情に気づくと、もうそれだけで一〇代の頃は単純にイカレてしまったなということまで思い出してしまう。この延長線上に女への関心の具合はとどまり続け、二〇年以上の年月を経ても何ら変わりがないということなのだろう。

来栖にはこの女のまなざしに自らの審美眼の判定基準を置き、それどころか女に対する美の基準にしてしまっているところがあった。

しかしこのまなざしというものはその拠って立つところがコケットリーに満ち溢れた意図的なものであろうと、全く人為的な操作なく自然に他者に向けられたまなざしであれ、そこに意識が集中してしまって女の魅惑を感じ取ってしまうのが彼の習い性になってしまっている。

そのような時には、女の美しさを認めてしまう自己の姿に、青春の頃から今に至るまで何も成長していないのではないかと自分ながら呆れてしまう。たまさか彼が過去につき合ったり、これからつき合うだろう女性とのことを漠然と考えたりする時、覚えているようでもあり、逆に覚えていないようでもある記憶の網目の中から、百合のまなざしらしきものだけは幾度か現れてきた。