辞世の句として、次のようにあった。

神かけて 誓ひしことの かなはねば ふたたび家路 思はざりけり

粂之助の墓は、寺の門を入ってすぐ左手、門を入れば真先に目に付く場所に立派なものがあった。供花もあった。

この日は、この後上杉城址にある上杉神社で、戊辰戦争戦死米沢藩士284名を慰霊する「招魂碑」に参った。神社前の壮大な米沢市上杉博物館には、「『戊辰戦争と米沢』9月15日から開催」と掲示があった。残念ながら私が行ったのは9月14日であった。

それにしても「会津いじめ」としか思えない戊辰会津戦争は、どうして戦われることになったのか。

以下では、戊辰戦争の経過を振り返りながら、その間に非業の死を遂げた多くの人たちの中から、その何人かに多少ではあるが光を当てることにしたい。

鳥羽伏見戦争まで

明治維新を一つの革命と見る場合、そこで生じた最大の変化は、「徳川幕府政権」から「薩長藩閥政権」への政権の移行であった。

その移行の過程では、開国か攘夷か、尊王か佐幕かを巡っての激しい争いがあったが、開国か攘夷かの「政策」を巡る争いは、いくつもの凄惨な事件を惹き起こしながらも、いつのまにか消えてしまった。

そして尊王か佐幕かの「政権」闘争だけが残り、薩長藩閥政権がその地歩を固めるまで続いた。一時、何人かの公卿が表舞台に立ったこともあったが、「公卿政権」は生まれなかった。

そして、その政権闘争も、途中徳川慶喜による大政奉還があって倒すべき幕府が消えてしまったため、慶喜の有していた領地の剥奪闘争に変わり、そこでも慶喜が恭順の態度を示すと、鉾先は会津藩に向けられ、会津藩が降伏すると、その後の版籍奉還、廃藩置県(諸藩侯の馘首)、金録公債(諸藩士の馘首)と進み、薩長藩閥政権の勝利、革命の完成となった。

なお、私は、「薩長藩閥政権」という言葉に否定的な意味を込めてはいない。

当時あるいは先見性もなく、あるいは日和見的であった多くの当事者たちの中にあって、国の進むべき方向を真剣に模索する人たちが薩長両藩を中心に集まったことは事実であろう。

たとえ彼らがどのような権力欲や金銭欲を隠し持っていたとしてもである。

※本記事は、2019年11月刊行の書籍『歴史巡礼』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。