「男は会社、女は家」が生んだ男性高齢者の悲劇

「男は会社、女は家庭」は、男性が高齢期に暮らす場所とずっと離れていた(実質的に地域に暮らしていなかった)という意味でもあります。

女性はこれまでと同じ場所で暮らせるわけですが、男性はあまりよく知らない人たちと初めてのことをしなければならなくなります。

この点も「男は会社、女は家庭」という分業が生んだ男性の大きなハンデとなっています。男性は定年したあと、能力や時間を持て余し、地域との付き合いも難しく、家に閉じこもりがちになる人が多くいます。

女性には既に近隣という共同体があっても、男性にはない。

少し田舎にいけば、消防団や自治会などの地域活動や年中行事などで男性の役割があったりしますが都市部ではなかなかそういった場はありません。

「男は会社、女は家庭」の固定化は、男性から「二つ目の生活力」を奪ったこと、「地域の共同体を持てなかったこと」の二つの点で、男性高齢者の高齢期の暮らしを厳しくしてしまったと言えるでしょう。

男性と女性の「思考力」「決断力」

多くの高齢男性がサラリーマンとして勤めていた会社という組織では、その規模が大きくなればなるほど、自分で思考する場面や自分で決断する機会が少なくなっていきます。

検討事項は機能分化したそれぞれの専門部署が考え、それを会議などで調整し、最後は「皆」で何となく決めたようにして物事が進んでいきます。

決断は上司がしてくれると思っている人は、役員クラスにもたくさんいます。稟議書を見ると一応は決裁者がいますが、実際にはたくさんの印鑑が押してあって、関係者が皆で合議して決めているので、誰も当事者意識や責任感をそんなに持っていない。

日本の会社というのは、自分で考えたり、自分で決断したりしなくてもよいような仕組みになっています。入社してから定年まで思考も決断も、ほとんどしなかったという人がいても、不思議ではないほどです。

会社の共同体を乱さないように、除け者にならないようにするためには、自身の確固たる意志やこだわりなどはないほうがいいという面もあります。そんなことより、今はどういった意見が多数派か、どのような結論に落ち着きそうか、この場で影響力のある人はどのように考えているか、といったことを察する能力のほうが重要です。

自分の感情を騙し、抑えてでも、その場の空気にふさわしい言動を選ぶ処世術、演技力が求められます。