上の娘、優子さんは幼い時からバイオリンを習っていた。バイオリン協奏曲など次々と弾きこなせるまでになっていた。政裕はよく日曜日に彼の社宅を訪れ、縁側に座って彼女のレッスンを聞きにいった。年代別のコンクールなどで入賞していた。

彼女が小学校何年生の時だったか忘れたが、チゴイネルワイゼンを弾いていたのを覚えている。その後、それがソノシートに録音されて売り出された。政裕はその一枚をもらって今でも保存している。

後年、大学の同窓生の西原が大手印刷会社に勤務当時、ソノシートの発売プロジェクトを担当して、最初の曲だったのがチゴイネルワイゼンだったそうだ。そんな偶然がある世間は狭い。

彼女は成人してパリに留学したあと、日本でオーケストラのコンマスなどバイオリンで生きる道を選んだ。宮本氏の熱心な教育が実ったのだった。

宮本氏は心臓に持病があって政裕が後年カナダから帰省し、再会して数年後亡くなった。

浅草からほど近い菩提寺に墓参した時、カラスが一羽すぐ近くの木にとまり、大きく一声鳴いた。

株式会社天龍実業で新しい仕事が始まった

仕事の場所は広い田園地帯で東西にまっすぐ伸びた砂利道の脇にひとつぽつねんと立っている工場ともつかぬ建屋と小さな事務所棟だった。

あたりは野菜畑だった。おもいおもいの作業服を着た人たちが数名人待ち顔でたむろしていた。彼らは新任の政裕からの何かの指示を待っている風だった。

政裕がここで何をすればいいのか。天龍実業本社での最初の打ち合わせでは、とにかく作業現場をみてくれということだった。それにしても、非常に大雑把な状況に驚いた。

ある日、その事務所に新聞記者が政裕を取材にきた。人材会社から得た情報で【人材の広域移動が始まった】とかいう記事にしたいらしい。

当時は終身雇用が常識であり政裕のような転職は珍しかったのかもしれない。

この会社の組織は全国展開の卸売り販売で主だった地区に支店があり、会社の人事管理は販売網を中心に出来上がっていた。

彼の任務はそれとは離れて新製品を新工場で立ち上げる組織作りなど一切の実務作業だった。

実際の製造工場は天竜川が流れる天竜市に予定されていて、すでに古い製材所の建屋で旧モデルFRPの製品が手作業で始められていた。

※本記事は、2021年8月刊行の書籍『波濤を越えて』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。