日本編

東京本社に転勤と吉川科学院への出向

政裕は年の暮れになって突然、一九五九年一月一日付で本社転勤の辞令を受け取った。

本郷の東大の弥生門近くにある独身者のための弥生寮に移転。正月明けに東京駅前丸の内本社に出勤、任務について技術部の部課長が同席して、霧谷専務から概略説明があった。

研究のテーマは半導体用高純度シリコンの合成で、それが完成すれば太陽電池に応用するという当時の先端技術開発競争の花形だった。毎週土曜日本社で専務に直接経過報告すること、社内外秘の取り扱いであることなど詳細打ち合わせが終わり任務の重さを感じていた。

この任務は政裕が福岡の工場から埼玉工場への転勤の時点で決まっていた節がある。埼玉工場での勤務期間が短かく、研究テーマが与えられなかったのはそれが理由だったのかもしれない。その策士は吉野福岡工場長だったのではないか。

勤務先は都内杉並区浜田山にある私設研究所、吉川科学院だった。建物は窓のないコンクリートの塊みたいな建物で、その研究所のオーナー、吉川氏に紹介された。

長身で髭を蓄えたいかにも大物の風貌があった。本郷から電車を乗り継いで小一時間かかる通勤が始まった。

その秘密の製法はこの研究所で発案されたものかよくわからなかったが、独特のもので既存の方法とは原材料とプロセスが本質的に異なるということだった。

研究のプロセスと原料物質、化学方程式、などの根拠が示された。この話がどうしてわが社に持ち込まれたのか。かなりの技術使用料が払われたと聞いた。なんとなく謎めいていた。

吉川氏の部下に東京工業大学出身の主任エンジニア須川さんとその助手阿久津さんが居て政裕の研究の世話をしてくれることになった。須川さんは化学学会では有名な東京工大の有機化学の権威F教授の愛弟子と聞いた。

いつも、科学技術に関する雑誌の原稿を書いていた。それを毎月、丸ビルに事務所を持つ小さな出版社の美人編集者が受け取りにきていた。その都度、研究所に来ている研究者連中と吉祥寺の行きつけのバーに繰り出していた。

政裕も飲むのは嫌いではないので付き合うこともあった。そのバーの客は愉快な連中だった。そのような息抜きもなければやっていけない。自由に研究できる雰囲気があり会社の組織から解放されて面白くなりそうだった。