政裕は仕事の合間にこのゴム紐を雷管の空管に詰め点火して管体から噴出するガスの力で飛ぶ飛行距離を測定した。これは一種の遊びだったが政裕にはこのような簡易な開発研究が面白かった。

研究していたほかの数件も研究報告書にして技術課長に提出し、吉野工場長ともそれらについての詳細を討議して現場適用の可否を判断していた。

そうした入社三年後のある日、工場長から主力工場である西洋化成品埼玉工場転勤の辞令を受け取った。

西洋化成品埼玉工場転勤

この工場でそのころの花形プロジェクトはロケット推進薬の開発と製造であった。

東大糸川教授のペンシルロケットから始まった一連のプロジェクトは当時すでに大型化が進み、後継の生産技術研究所が総括請負で動かされ、埼玉工場が推進薬の製造と本体に装填する工程を請け負っていた。

入社一年先輩の東大火薬講座出身のエンジニアがその総括指揮の立場にあった。

鹿児島県内之浦の打ち上げ実験のたびに数名ずつロケット部門から派遣されていた。

政裕が配属された部署は技術課研究係だった。課長は竹下さん、係長は今岡さんだった。どちらも東大の火薬講座の出だった。ロケット推進薬の研究とは無関係の部署だった。

この工場には優秀なスタッフがそろっていると思った。

この工場は朝鮮戦争特需の砲弾、信管類、その他の火工品を数年前まで作って利益を上げていたが、政裕の転勤当時の主力製品は産業用火薬類、自衛隊(当時は警察予備隊)向け爆薬、起爆装置、地対地小型ミサイルなどになっていた。

埼玉工場での四か月は研究係に配属されていたが研究テーマが与えられず、他のメンバーの仕事の手伝いなどで無為な時間が過ぎていった。

福岡工場で経験した暇な研究員になっていた。

※本記事は、2021年8月刊行の書籍『波濤を越えて』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。