クレームの要旨は十か所の段差。すなわちミリ秒間隔に設定されている各ダイナマイトの起爆時間の差が設定通りでないので石炭層の崩れ落ち方が想定通りでない、その原因は電気雷管の時差が狂っているということだった。これは根岸さんの守備範囲の案件だった。

彼は現場の在庫を持ち帰って検査試験すると約束して現場から坑口へ引き返した。坑口では年配の女性が上がってきた作業員たちに煙草をくわえさせ、火をつけてくれていた。目だけを残して顔は真っ黒、そのまま共同浴場でシャワーを浴び、大きな湯船につかった。

そのあと、職員クラブで九州工大の鉱山工学科の先輩数名が夕食を一緒にしてくれた。この鉱山はその後、七年ほど経ったある年の梅雨時に豪雨災害に見舞われ、水没し多数の犠牲者が出たというニュースを聞いて愕然とした。救助に入坑した先輩たちもその中にいたのだ。

これは六年ほど経った一九六三年十一月のことだったが、大牟田の三井三池炭鉱の炭塵爆発で、四百五十八名の犠牲者が出た大事件が発生した。

政裕はそのニュースを埼玉工場在勤中に聞いたのを覚えている。

原因は当時の九州工大の荒木教授によって調査された。

それによると坑内からトロッコで引き上げられていた炭車数台の鎖が切れ、炭塵を巻き上げながら坑内に逆走し炭塵に引火、大爆発、さらに不完全燃焼で一酸化炭素が発生、多くの犠牲者を出した原因となったと結論づけられた。

筑豊炭田には数多くの炭鉱が散在していた。その所在はボタ山でわかる。坑口から中に入るとその先は日の当たらない暗闇の世界でキャップライトと点在する防爆型電灯だけが頼り。

削岩機、穿孔機から発する音と粉塵、爆薬の貯蔵、装填、発破、メタンガスの吐出とガス爆発、落盤、最悪は粉塵爆発、洪水による水没、それらあらゆる危険と事故要因が存在する地上からは隔絶した別世界がそれぞれのボタ山の下に広がっていて、そこで働く人たちが居るのだ。

その家族たちは毎日、鉱員の無事を祈って帰りを待っていた。炭鉱は経営者にとって、利益を上げやすい事業である反面、事故発生リスクが大きくそこで働く鉱員も同じく稼ぎは大きいが危険度が高い職場であり、技術者はその安全を管理する大きな責任を負っていた。

やがて日本は高度成長期に入り、火力発電所は石炭から石油火力にかわり、モクモクと出ていた煙突の煙がなくなり、鉄道も電化が進み、工場地帯の空気もきれいになっていった。

石炭産業は斜陽の時代になり、日本中の石炭鉱山が相次いで閉山となり、ボタ山が姿を消していった。

※本記事は、2021年8月刊行の書籍『波濤を越えて』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。