やがて母は洋裁店を開き働き始めた。注文が入るようになり忙しくなって母子四人の生活にゆとりを感じるようになったある日、母はミシン針で親指を打ち抜いた。それが化膿し敗血症を起こした。

これは不治の病だといわれていた。だんだん衰えていく母を見るのが辛かった。

母の看護と家事手伝いのために母の国元から姪の秋子を呼び寄せて皆の面倒を見てくれていた。

半年ほど後、三人の子供を残して逝ってしまった。

三年生一学期、六月のある日、朝の体操の時間、政裕が運動場で整列していたところへ先生が現れ、すぐ帰りなさいといわれた。秋子が電話したのだろう。

夢中で家に走って帰って階段を駆け上がり、通りに面した窓際で母の枕元に座った。いつも往診していた主治医も看護婦もそこにはいなかった。

酸素吸入をしていたが、母はそれを外して懸命に話しかけた。何を話そうとしたのか思い出せないが、政裕は傍を離れず往来を見ていた。涙が流れて何も見えなくなっていた。二人の兄は午後になって帰ってきた。

それが母との最期の別れとなった。次の日の朝、階下で寝ていた政裕たち兄弟が階段を上がってみると母はすでに息を引き取っていた。看取る人もなく、死にきれない思いだっただろう。こんな孤独な死に際にさせられてしまった母の哀れを思った。

ペニシリンの注射一本あれば命が救われていたことがあとになって主治医から告げられたそうだ。父の死で家庭団欒に終わりを告げ、母がそのあとを追ってしまった。

父と母と暮らした時間は政裕の生涯のほんの僅かな部分だった。その僅かな時間に三人の兄弟に生を与えてくれて逝ってしまった。

母の面影は忘れない。

何かの危機に面した時、政裕は“母さん助けて”と心の中で呟く。

その習慣はそれからずっと、成人し、就職し、独立して、外国に渡り、もろもろの難局をかいくぐって老齢期を迎えた今でも、そして人生の最後の瞬間までも続くだろう。

戦時中の少年時代

母が亡くなったあと、兄弟三人は一旦芦田宅弥叔父が父の事業を引き継いで住んでいた下名島町の家に引き取られた。

宅弥叔父は大連から福岡に引き揚げた父より十四歳下の末弟で父にすべてを任されていた。そこから再び叔母の家族が住んでいた警固に引き取られ同居することになった。政裕は何日も学校を欠席して勉強もしなくなっていた。

西新校から警固校への転校を嫌がり、三年生の二学期は天神町から、三学期は警固から電車で通学した。四年生の一学期はそれもやめて、家に引きこもっていた。引っ越しばかりで友達ができなかった。

何か月か経ってようやく近所の子供たちと友達になり、二学期から警固校に転校して通学を始めたが成績は悪くなっていた。

そのころ、すでに食糧難になっていて皆腹を空かしていた。

近所の男の子供たちと大きな屋敷の裏側の塀を乗り越えて畑のさつま芋を掘って盗んだことがあった。

その連中の一人の家で焼き芋にしてもらって食べた。何度かうまく見つからずに成功したが、ある日見つかってしまった。

そこの家人に言いつけられたとおり、みんなでその夕刻、その大きな屋敷の表玄関に恐る恐る入ると座敷に通された。

その家の主は和服姿で髭を生やしていた。いかにも厳格な感じがしてどういう叱りを受けるのか怖かった。

みんなはかしこまって正座した。主人は分厚い本を書見台においてページを繰りながら読み始めた。カタカナの名前が出てきたので、それは今から思えば外国文学の翻訳本で犯罪ミステリーみたいなものではなかったか。

その話はある悪人が罰として分厚い本を読まされる話だったが、その本は全部白紙で何も書いてなく、指に唾をつけながらページを繰るのに骨が折れる奇妙な本だった。

ただ、ページ毎に毒が塗ってあったので最後のページにたどり着いた時、悪人は息が絶えたという話だった。

もしこれが処刑に使われたのだとすれば、悪人に死の恐怖を与えることなく処刑したことになる。

※本記事は、2021年8月刊行の書籍『波濤を越えて』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。