桐壺院の子、朱雀帝の弟、東宮の?

桐壺院の一周忌が過ぎるころになると、政治の主導権は右大臣側に移り、光源氏や左大臣のあたりはものさびしいことが多い。左大臣の子息である頭中将ら、光源氏を取りまく人たちは、所在ない日々を詩作などで紛らわしている。

そこで詠まれる和歌や漢詩は、どれもみな光源氏をほめたたえるものばかりなので、光源氏は得意になり、つい調子に乗って、「文王

ぶんわう
の子武王ぶわうの弟」と、口ずさんだ。

『史記』によると、周公旦しゅうこうたんが兄武王の子に代わって政を執ったとき、わが子の伯禽はくきんを魯に赴かせようとして、「我ハ文王ノ子、武王ノ弟、成王ノ叔父ナリ。我天下ニ於テ亦賤またいやシカラズ」と言ったとのことである。光源氏は、自分を周公旦になぞらえて、「文王の子武王の弟」と言ったのである。

その途端に、物語は、「確かに名乗りは立派だけれど、『桐壺院の子、朱雀帝の弟』まではよいとして、『東宮の何』というつもりなのかしら。まさか『東宮の父』と言うこともできず、お困りになるのではないかしら」(1)と、光源氏を冷やかした。紫式部のいたずらである。

(1)御名のりさへぞげにめでたき。成王せいわうの何とかのたまはむとすらむ。そればかりやまた心もとなからむ