学生時代には、いわゆる不良少年がいましたし、いつの世も反社会的な行動をとる人は常にいて、世間の安定を乱そうとするわけですが、それは元を辿れば、世間の側が彼らを「仲間外れ」にした結果(彼らがそう感じた結果)としての反発や抵抗という面があります。

同じように、高齢者がキレるのは、高齢になって世間を失ったときに「仲間外れ」にされたと感じるからでしょう。

いわば〝村八分〟にされているように感じ、なぜ自分を除け者にするのだと恨んで反撃する。

何か良からぬ事をした結果として村八分にされるのならば分かるけれども、自分はそれなりに努力をして社会に貢献してきたにもかかわらず、なぜそのような扱いをされなければならないのか? という怒りの発露です。

定年退職して仕事で得た肩書きは外れているのに、いつまでも高い自己評価を維持し続け、そのプライドが邪魔をして新しい居場所に馴染めない人たちがいます。

街の中ではただの高齢男性のひとりに過ぎませんから、特別な対応を受けることはありません。

そして、本来得られるべきだと考えている社会的な承認が得られないことへの憤りが生まれます。

以前に所属していた共同体から受けた承認や称賛を、違う共同体に求めるのは無理があるのですが、それに気づかずにキレるのでしょう。

高齢者の運転免許証の返納に関する問題も、似たような背景があるように感じます。

周囲からすれば、免許を返納しても公共交通機関を使えばいいし、敬老パスもある。そもそもそれほど外出しないのだから、必要なときにタクシーを呼べばいいじゃないかということになりますが、車は現在の高齢者にとって、ただの生活の足ではありませんでした。

車離れを指摘される今の若者には分かりにくい感覚でしょうが、かつては運転免許を取得するのは大人の共同体への仲間入りを意味しており、車の所有は憧れでした。

また、懸命に働いて身を立てたことの証でもありました。

運転免許証も車も、高齢者にとっては単なるカードや移動手段ではありません。

それを手放すことは何か大事なものを失ってしまうような、成人の共同体にいることの証明書をなくすようなものですから、当然、なかなか自主返納には踏み切れません。

また、世間からの「いい車に乗っている」「いい家に住んでいる」といった非常に単純で分かりやすい外形を自分への評価の代替としてきた人は、いつまでも肩書きにこだわるように、運転免許証も返納しにくいのでしょう。