第二話  東日本大震災物語

2時間あまりの激励野球教室が多くの方々の善意で終了することができた。

今回の野球教室が終わり、夕食は角かく田守良(たもりよし)加須市副市長のおもてなしを受けた。通称「そば小屋」と呼ばれる角田さんのご自宅内に立てられたおもてなし用の小さな平屋の小屋で「お疲れ様会」が始まった。

木建(もくたて)の入り口から入り、テーブルに座ると、目の前には和服姿に腰から下に前掛けをしっかり結んで立っていた角田さんがいた。

「副市長、似合いますね。今日は小早川さんにうどんを召し上がってもらおうとのことですが。うどんは手打ちですか」

と、前掛けがとても似合う角田さんを見つめながら私は言っていた。

「当然ですよ。私が今日は手打ちうどんとそばをご馳走しますね」

と、手打ちうどんを作るのに自信満々の表情であった。

そのうどんを食べやすく切る手さばき、さらにうどんをお湯に入れ、さっと釜から取り上げる所作など職人芸の腕前であった。

「いやぁ。角田さん素晴らしいですね」

そこにいた、小早川さん、野本先生、小室課長ほか感嘆の表情を浮かべていた。そして、目の前にできたての手打ちうどんが出され口にした。

「うまい、うますぎる。さすがうどんの街、加須ですね」

と言って、小早川さんはうどんが大好きだそうで、おかわりをしてうれしそうにうどんを召し上がっていた。

小早川さんは、レンタカーを借りているので、午後時8までに返却しなければならないとのことで、返却時間に間に合うように「そば小屋」を退出された。

小早川さんを見送ったのち、加須市役所関係者と女子硬式野球関係者でこの日の激励野球教室の成功を祝して、時間の許す限り、宴を催していた。

4

平成23年3月11日に発生した東日本大震災から、4年が経った平成27年3月吉日付で一通の封書が加須市役所から私の自宅に届いていた。

内容は、平成23年3月末に福島県双葉町の皆さん1400人が旧騎西高校に集団で避難され、平成25年12月27日までにすべての双葉町民が退所され、平成26年3月27日をもって福島県双葉町が避難所を閉鎖して埼玉県に返還。その間私が激励の野球教室を企画・運営し、双葉町の皆さんを支援したことに対する加須市からの礼状であった。

―― 身に余る光栄であった。

また、平成27年3月11日、午後2時46分。当時の花咲徳栄高校校長小林清木(きよき) 先生の発案で、東日本大震災の4年目の追悼を祈念し、地震発生の同時間に全世界に響くようにと、花咲徳栄高校内にある30年の星霜を重ねた瞑想の森に建立されている「鐘楼(しょうろう)」を、小林校長が思いを込め力強く7つ撞つかれた。

花咲徳栄高校の鐘楼は、初代校長 故佐藤照子(てるこ) 先生が創設時に生徒の幸せと日々の安全を祈念し、さらに世界の平和と安寧を願って、富山県・高岡市で制作されたものである。

東日本大震災時には礎石にひびが入ったが、倒壊することはなく威風堂々と残っていた。

春の木々やメジロが寄り添う鐘楼から響き渡る鐘の音は、日本全国の多くの人々のこころに響くと共に全世界、宇宙へと響き渡っていた。

さらに、震災から丸5年を迎える平成28年3月2日には、福島県双葉町町民らを支援する加須市の「NPO法人加須ふれあいセンター」がイベント「5年目の3・11」を開催する前に、同センターのスタッフや学生ボランティアら約80 人で旧騎西高校に集まり、清掃活動を行った。

その活動の中に、平成国際大学女子硬式野球部員20人が、正門正面の藤棚や喫茶コーナーが設けられるなどの場であった生徒ホールの内外等を清掃した。

平成国際大学女子硬式野球部には専用球場がなく、男子の使用していない日、花咲徳栄高校女子硬式野球場、加須シニア(ポパイ球場)等をジプシーで借り、練習を行い、長期休暇中は頻繁に旧騎西高校で練習をしていたので、清掃の依頼があったときは快く引き受け、部訓「すべてに感謝」の下、当時の主将であった菊池榛奈(はるな) と部員は清掃に汗を流していた。

部の方針に「一に清掃、二に挨拶、三に勉強、四に女子硬式野球」というのがあり、このボランティアをしたことによって、さらにこころがピュアーになっていた女子球児たちであった。

※本記事は、2017年12月刊行の書籍『女子硬式野球物語 サクラ咲ク2 旅の果てに』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。