以前東京の寺を訪ねたことがあるが、「檀家以外はお参りをお断りしています」と言われ、お参りは叶わなかった。仕方なくいずれ会津の方へと思っていてのこの日となった。

この寺でも墓は起伏のある広い緩斜面に散在している。

萱野家の墓は墓地を奥まで進み右手に折れて少し戻るように山肌を上がった山の鼻にあった。そう広くはない平らな場所に、大きな墓石が十数基、小さめのそれがそれ以上並んでいる。

萱野権兵衛の墓は……と探すが、萱野家は代々権兵衛を名乗っていたようで、どの墓石も萱野権兵衛で、どの権兵衛さんが目当ての権兵衛さんかわからない。

仕方なく全ての権兵衛さんに頭を下げる。中に1基ご夫妻お二人の戒名を連ねた墓石があり、それではないかとも思ったが、墓石の側面に明治29年3月とあったので、はてな?とも思った。

帰りに立ち寄った寺の庫裏で聞くと、やはりそれが目当ての権兵衛さんの墓であったが、「なんとなく中途半端な墓参りだったな」と思いつつ、その日はそのまま帰った。

そして5月、再度寺を訪ねた。

目当ての墓石の前に、この日は黄色い花が供えられていた。

そして写真を撮ろうと墓石の右側面に回って見ると、そこには明治2年5月18日の文字があった。明治29年3月は夫人の亡くなられた日であった。

萱野権兵衛の墓を背にして立つと、まさに墓石の真正面の方角に鶴ヶ城の天守閣が見えた。

萱野家の墓地に入ってすぐに郡長正の墓がある。「郡(こおり)」は萱野権兵衛の死後萱野家が家名断絶となっていた時期に萱野家の人たちが名乗った姓のようである。

長正は、斬殺された権兵衛の次男である。

父の死後藩命により他の何人かの藩士と共に豊津藩の藩校育徳館に留学した。

豊津藩は、第二次長州征伐の際長州軍に小倉城を追われた小倉藩が、現在のみやこ町に移って建てた藩である。

留学中のある日、長正は母親に手紙を書いたが、その中に食べ物についての不満めいたことが記されていた。母親からは、これを厳しく咎める返書があった。その返書を長正が落とし、それを豊津藩士の子弟に拾われ、大衆の面前で罵られた。

一緒に留学していた旧会津藩の同僚からも、殿の顔に泥を塗るものと責められた。

1871年5月1日、長正は豊津で自刃して果てた。

※本記事は、2019年11月刊行の書籍『歴史巡礼』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。