京子の病の進行よりも私が前に出るためには、何かしていなければ自らの不安に追いつかれそうになる。ラジカットを続けるお願いをすることで、追い詰められた気分が、少しだけ軽くなったような気がした。

「いいですか。ここからが重要なところなんです」

先生がいつの間にか威厳を取り戻したように、やや語気を強めた。わざと言葉を区切って、ボールペンで書類に線を引きながら、目を大きく見開き、私に素早く目配せをして言った。

「次のラジカットまでに、気管切開をして、TPpV方式(気管切開を実施した人工呼吸療法)にするかどうか、確実に、決めておいてください。よろしいですか」

眼鏡越しに私の目を覗き込み、最後の確認をした。

「前にも申し上げましたが、すでに努力性肺活量が四十%に近づいており、このままいけば、呼吸不全に陥ることになります。いいですね!」

再度の念押しをした後、書類にレ点を付け、患者に伝えることの項目の確認を完了したようだった。

「え~えと、それとですねぇ、今日から、NPPV(マスク式の人工呼吸療法)の使用時間をできるだけ長くしたいので、睡眠時の使用時間の目標を上げましょう。同意いただけますね」

椅子に座ったまま身体をねじり、私が頷くのを見て、自信を取り戻したのか安堵の表情を浮かべて、さらに付け加えた。

「念押しになりますが、いいですか、奥さんとよく話し合い、今のNPPV方式のままか、TPPV方式にするか、次の第七クール目までに決定して、来院してください。そうしないと医師として、もう、責任が取れない段階に入っているということです」

椅子の背もたれが軋み音をたて、太い身体から不動の気迫が溢れ、強い言い方に変化していた。これが、面談の一番の目的だったのであろう。先生の顔が、私の中で強面から少しだけ親しみの持てる顔に変わってきた。

呼吸機能が著しく低下して、重度の呼吸障害に対応するためには、生命維持療法として、気管切開をしなければならない。

但し、呼気が声帯をバイパスして排出されるために、患者は声を失う。

私にとって、これが一番の恐怖であり、返事を引き延ばしてきた最大の理由だった。

しかし、もう引き延ばすことはできない。

的外れな怒りをぶつける私を、途中で投げ出すことなく、手を尽くして、本気で諭してくれたのだ。

※本記事は、2021年7月刊行の書籍『ALS―天国への寄り道―』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。