だけど、裸は裸じゃないの、と思う。

ムッシュー・マネの『水浴』が非難された同じ二年前、サロンで評判になり、皇帝が買い上げたアレクサンドル・カバネルの『ヴィーナスの誕生』は、確かに綺麗だったけれど、同じ女としては直視できないほど恥ずかしい絵だった。

それに比べるとムッシュー・マネの描く裸婦は凛として、美化されてもいない。ずっと親しみやすいし鑑賞しやすいと思う。

カミーユだって、たくさんの"古典"といわれる絵を見たことはあるけれど、ムッシュー・マネの絵だけが特に変わった構図をしているわけではない。

実際、『水浴』はヴェネツィア・ルネサンスの巨匠ティツィアーノの『田園の奏楽』を主な発想源にしていると言われ、『オランピア』も同じくティツィアーノの名作と謳われる『ウルビーノのヴィーナス』をもとにしていると言う。

タブローにならなかったとはいえ裸体モデルも経験していながら、女性の裸は芸術的存在なのかと問われれば、カミーユははっきりと答えることができない。

人間の体を正しく描くために裸体をデッサンする。それはわかる。その裸体が"美しい"と言われれば、それもわからないではない。

でも"芸術的"と言われると、芸術って何かしらと思う。

女性の裸体は、自分がモデルになっていなくても何だか気恥ずかしく、いつもじっくり鑑賞できない。じっくり鑑賞もできないし、「この裸婦は素晴らしい!」と感じたこともないのに、それが芸術と言われると腑に落ちない。

それは私が女だから? 男性は、女性の裸を"芸術"として楽しんでいるのかしら。

芸術って一体何?

どんな感情を呼び起こすものが芸術?

※本記事は、2020年8月刊行の書籍『 マダム・モネの肖像[文庫改訂版]』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。