義母もストレートな物言いの人だった。「東京の家に同居したい」と話した時に「それは駄目よ。一緒に住んで先に息子が死んだら、私行くところ無くなってしまうじゃない。お嫁さんに追い出されちゃったなんて話、友達からもよく聞くのよ」。お茶を飲みながらケロッと口にする。狭い社宅に何の気兼ねもなしに長逗留する義母から出た言葉とは思えず驚いた。そしてもう二度とこの話はするまいと心に誓ったものだ。

母も無邪気なものだった。弱った父を私に押し付け、自分はお洒落してブティック通い。毎日毎日、そこの若い素敵な社長に会いに行く。そして彼の親衛隊仲間と何時間も話に花を咲かす。大病した後すっかりやせ細り衰弱していた母が、彼とそのお仲間のお陰で生き返ったのだから、私にとっても大恩人なのだが、その時は「まったくいい気なものだ」と呆れていた。

私は父の娘であり妻であり保護者であった。父親として君臨すると同時に私を全面的に頼って来る父を疎ましく感じ、そう感じてしまう自分が情けなく嫌だった。思ったことをそのまま口にし、思った通りに行動する、ある意味無邪気な3人の親。

その一方、小学校から高校までの無邪気とは程遠い、扱い辛い子ども達4人。まさに八方塞がり、試練の日々は長かった。それは我慢と忍耐が誰より苦手な私に神様がくれた貴重な経験だったのかもしれない。父が亡くなってから7年過ぎてやっと静かな気持ちで思い出せるようになった。

今、家には、ますます無邪気になった母と、辛抱なしのワガママ娘に逆戻りした私がいる。それでも今一番仲良ししている。自分が年を取った分、母を近く感じられるようになった。子供叱るな来た道だもの、年寄り笑うな行く道だもの。心に余裕がある寛容な人間になりたい。そして母の様な可愛いおばあちゃんになりたい。天衣無縫憧れる。

天衣無縫てんいむほう 人柄が純真で素直で、まったく嫌味がないさま

※本記事は、2020年6月刊行の書籍『ママ、遺書かきました』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。