元々生前の彼女には注目することなどまずなかったはずだと思っているから、この帰結は当然のことだ。

その例外ということでは、来栖にとって忘れられないことは一点に集中していた。彼女の目、そしてそのまなざしについてだけは、来栖のほうに向けられた時のたたずまいというか、一般に物や特定の人間をじっと見ている時の彼女の表情の浮かべ方については、彼女の目から出立してそのつながりで彼の記憶の中に蘇ってくるものが確かにあった。

来栖は百合の『遺書』を強制的に読まされたと思い込んでいた。そのため当初は後半部を読んでみたいというところにまでは何とか踏み込んだが、『遺書』に没入して二度、三度と深く読み込んでいきたいというような気持ちには到底なれなかった。もっとも最初『手記』と判断していたものは、実際の内容からすると、やはり彼女の家族が断定したように『遺書』に間違いないという思いだけは次第に強くなっていった。

これは事実だが、単に受けとめ方が少し違ってきたというに過ぎない。その結果、この冊子を冷静に再読してみようとするよりも、すぐにも捨て去りたい気持ちになるほうがやはり強かった。

しかし死の予兆をはっきりと感じ取ってしまう百合の感応力というか、たとえそれが偶然に的中したということだとしても、その力にだけは非常に心を動かされた。母親や兄との話し合いでわかったことだが、百合にはたいして深刻な持病があったわけでもない。

しかも生前最後の数年で、とりたてて体の不調を訴えたこともないようだった。来栖は彼女の死についての予知能力につき、その根拠となるものが全く見いだせなかった。

とはいうものの、彼女が亡くなるまでの経緯を大雑把とはいえ知ってしまったあとでは、彼女のことで心に痛みを覚えたのも体の面での正直な反応だった。

百合の予知能力については、死に至る経緯を聞いた最初の頃は疑いの心が半分、摩訶不思議な能力を持っているものだと思う気持ちが半分といったところだった。

それでも百合のことを時たま思いだしてしまう時など、来栖は次第に彼女にはこのような能力が備わっているということもあり得る話だと信じるようになる時もあった。それと同時に次第に不気味な感触というか、百合という人間全体から出てくるものをそのように体で感じ取ることもあった。

それと比例して、最初は感じていたと思っていた彼女への憐みといったものが全くわいてこないということにも次第に気づき始めた。

心の冷たさというのだろうか、心が冷え切ったままの自分自身に対して今度は慄然とするといえば大げさに聞こえるが、自身の人間観というのだろうか、冷ややかすぎる死の受けとめ方そのものにショックを受けた。

自分で思ってしまって自分の資質というか、性格に嫌気がさす。

それは彼の心の中に住まう忌まわしいものから出てくるものなのだろう。