この町のために、今自分ができることを模索した末に

そんな日々がその後も続いた。

肉体的にも精神的にもダメージを受け、周囲の人たちは気遣ってか、私を避けているようにも感じた。

事務所を開業し、地べたを這うような生活をしていた5年間があったが、そのような日々が幸せだったかのように55年という人生の中で、これほど心が壊れた経験をしたことは無かった……。この町長選で起きたことのすべては、私の所為だと自分を責めた。

ここで、彼の話を取り上げたのは、私の人生を語る上でなくてはならなかった人物だからである。

彼には、感謝と謝罪の思いしかない。これまでお世話になったすべての事、議員選、町長選、幾度も助けてくれて本当にありがとう。あなたの想いを実現させることも出来ず、家族と離れ離れにしてしまって申し訳ない。

天国にいる彼と思い描いた「みんなが笑顔で幸せに老若男女問わず暮らせる豊かな町を作りたい」という想いに、賛同する町民と共に、何時の日か実現できたらと心の底から思う。

町長選を戦う一方で、社会保険労務士事務所がどうなっていたかというと、町長となれば兼業は不可能と考えていたため、事前から事務所を託す人物の育成を行っていた。

その人物が、実際に事務所運営をしていくことができるのか確認することと、首長になって推進する英語力が中高齢でも学ぶことが可能であるのか実践するために私は、単身海外へ飛んだ。

語学留学の先に見えた未来

平成30年6月、私は、単身フィリピン・セブ島のセブ空港に降り立った。

家族には、旅立の前日にフィリピンに行くことを伝えた。もちろん妻には、以前より告げており、その準備を怠りなく手伝ってくれた。

妻は、町長選でのあらゆる出来事に、私の体だけでなく、心までもがボロボロであることを一番身近で知っていたため、相当心配をかけていたであろう。

それでも、単身海外に渡ることを反対しなかった。両親は驚きを隠せないようであったが、生みの親というだけあって、いつものことかといったように納得はした。

まったく英語が喋れない・聞けない・書けない・読めないという4拍子揃った人間が、ぽつんと1人頼る人のいない場所に置かれたときどうなるのだろうかという不安とともに、海外での挑戦が始まった。