「わしは、このようなことは実際に試してみて、良い方につけばよいのではないかと思うのじゃがなあ」

いかにも実際家の元能らしい意見である。そしてそれが一番の解決法であるだろう。

しかし一方で、氏信は世阿弥と元雅の能に対するこだわりがわかる気もした。

世阿弥は伝書にも記してあったとおり、本意というものを大事にする。人に見えぬ亡霊ならば声のみで舞台に描き出す。それが舞台に一段と真実味を加え、能に深みをもたらすのだ。それは氏信にも十分うなずけることである。

その世阿弥が一方では、誰も見たことのない鬼などはそれらしく見えれば良いと割り切っていることはさておいて、であるが。

しかし氏信はまた、元雅が隅田川の能に込めたものを痛いほどにわかる気がした。元雅が描きたいのは、人の情けである。

元雅の能にあふれているのは弱き者、はかなき者への優しい眼差し、無常の世の中で必死に寄り添い、情を結び合う者たちへの限り無い愛情である。

我が子を失い、思いの行き場をなくした母の前に現れる子の亡霊は虚ろな影ではなく、母の目にはありありと見えているのでなくてはならない。そんな元雅の思いが能の隅々から伝わってくる気がするのだ。

結局、その話はそのまま結論が出なかった。

自分ならどう演じるか、自分の書く能はどうあるべきか、自分自身で考え抜くしかないことなのである。

※本記事は、2021年5月刊行の書籍『夢花一輪』(幻冬舎新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。